蜜月

いつまで経っても慣れない。

勿論、それまでに付き合った相手がいなかったわけではないし、これまではどちらかと言えばそう、自分がリードする側だったからなのかも知れないけど。

夕暮れ。迎えに来てくれたカカシさんと連れ立って歩いていて、何となくそんな雰囲気になった時。

カカシさんから伸ばされた手に(さすが上忍というべきか)俺は全く気付かなくて。

俺より少し体温の低いカカシさんの指先は決して強引ではないけれど、心の準備なんかまるで出来てなくて大袈裟にビクリと強張った俺の手を逃す事なく、優しく包み込む。

握り返すのを躊躇う俺に、『誰も見てませんよ』と右目だけで笑うカカシさんはとても幸せそうで。

俺もカカシさんと同じように思っているのに、顔はカッカと火照ってしまうし、恐る恐る握り返す手にはやたらと力が入ってしまう。

初めての恋愛でもあるまいし、手を繋ぐだけでもこんなだなんて、男として、大人として情けなく思うし、こんな俺を好きだと言ってくれるカカシさんに申し訳ない。

痛いよイルカ先生。なんて冗談めかして笑うカカシさんは、俺の大好きな銀髪にキラキラと夕陽を受けて、鼻歌混じりに畦道を歩いていく。

さっきまでは並んで歩いていたのに、手を繋いでからは半ば引っ張られるようにして半歩後ろを歩く俺は、夕陽が沈むまでに顔の火照りが治まりますように。と祈るばかりなのだ。





手を繋ぐだけでもそんなだから、さらに進んでキスするような甘い雰囲気になると、俺の緊張はピークに達する。

大抵は部屋でゴロゴロしていたり、俺が台所に立って何かしらしている時が多い。

スキンシップの延長のような、唇が軽く触れ合うようなキスならだいぶん慣れた(と思う)

洗い物に集中している俺に音も無く忍び寄り、チュッとキスして、スッと離れていく。

それも最初は物凄く驚いて茶碗を落っことしそうになったけど。

俺の反応を見て、さも悪戯が成功した時の悪ガキのようににんまりと笑って去っていくカカシさんは、外では決して見る事が出来ない、恋人である俺にだから見る事の出来るカカシさんだ。

そんな瞬間、ああ、やっぱりこのひとが好きだなと思うのに。

同じように想っているこの気持ちを、同じように返せたらと思うのに。

例えば相手がナルトなら。

力任せにしがみついてくるアイツを、同じようにギュッと抱きしめてやれる。

例えば相手が仲の良い同僚なら。

くだらない冗談で小突き合って、大笑い出来る。

カカシさんにだけそれが出来ないのは、彼が俺の特別だからなのだけれど。

『好き』と言われて、同じように『好きです』と即座に返す事の出来ない俺を、カカシさんはどう思っているんだろう?

キスより先に進めようとする気配を微塵も感じないのは、やっぱり俺の態度に問題があるんだろうか。









「最近元気ないですね。俺の所為?」

グシャリと音がして、俺の手の中で見るも無惨に粉々になった卵の殻が、ボウルの中に滑り落ちた。

買い物に行くのを忘れて帰宅してしまったから、今日はあり合わせの物でオムレツでも作ろうとしていた矢先。

手伝いを買って出てくれたカカシさんが玉葱を刻む手を止め、不意にそんな事を言うものだから。

「卵…」

「殻は除ければいいです。ね、俺の所為?最近元気無いの」

「…元気、無いですか?俺」

「うん。やっぱりこういうの、迷惑だったかな。会うたびに元気が無くなるし、笑顔も固くなるし…。俺の所為だよね?今も顔、ちょっと引きつってる」

指先で頬を突かれて、突然鼻の奥がツンとしたのは多分、玉葱の所為だ。

穏やかな笑顔とは裏腹に、まるで今から別れを切り出そうとしているかのようなカカシさんの雰囲気が怖くて、じゃない。

だって、そんなの自業自得だろう。

「迷惑なんて、思ってません」

「…そう?」

「迷惑だったら、こうして一緒に…いませんよ」

貴方が好きだから。そう付け加えられればいいのに、俺はそこで唇を噛んで、卵の殻を取る作業に取り掛かる。

「きっと、あっという間ですよ」

「……何がですか?」

俺から視線を外して玉葱へと向き直ったカカシさんは、小気味良いリズムを立てながらポツリと呟いた。

「きっとね、俺達はあっという間にお互いの存在が当たり前になって、構えたり緊張したりだなんてしなくなると思うから」

「……」

「だからね、そうなる前の今のこの状況が…なんて言うかな、俺はイルカ先生が考えているほど、嫌じゃないんです」

カカシさんの声はとても柔らかくて。

俺に、無理をしなくていいと言ってくれている。

返事も出来なくて頷くだけの俺は、肩に当たるカカシさんの体温を布越しに感じながら、滲んだ視界でボウルの中の卵をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。




end

叫ぶ、屋上にて。

「くたばれ馬鹿ヤロー!!」

深夜、アカデミーの屋上。

俺は大声で叫んでいた。

その日は受付所で、任務報告に来たある上忍からどうしても我慢出来なくなるような雑言を浴びせられたのだ。

揉め事は御免だから、表面上は曖昧に笑って受け流したけど。

その上忍が去ってからもムカムカは止まらなくて、隣に座っていた同僚を誘って就業後飲みに繰り出した。

散々愚痴をこぼして、財布も胃の中もすっからかんになる程飲んだ。

明日には二日酔いで苦しむだろうし、空になった財布を見て大いに溜息を吐く羽目になるだろうけど、そんなの今は知ったこっちゃない。

受付当番なんて、何も知らない連中からすればお気楽な仕事に見えるだろう事はわかっている。

書類さえ捌けばいいんだろ。と、最初は軽口を叩いて俺の隣に座っていた同僚は、一週間後には胃潰瘍で入院した。

違う同僚は円形脱毛症に悩まされ、三代目にお願いして配置替えをしてもらったぐらいだ

受付業務は、見た目以上に神経を使うのだ。

任務や依頼にいちゃもんつけてくる輩もいるし、里に入って気が抜けるのか、やたら絡んできたり愚痴をこぼしたりする人間もいる。

気持ちはわからないでもないから、うんうんと頷きながら実は話半分に聞き流していて。

それでも、ひとの悪意というものはジワジワと神経に食い込んでくる。

愚痴ぐらいなら可愛いもので、一番腹が立つのはいちゃもんつけてくる連中は、決まって三代目が不在の時に限って文句を言ってくるのだ。

「ちょっと俺達の階級が下かと思ってなめやがって…割り振られた任務に文句があるなら、三代目に直に言えばいいだろバカ上忍ー!」

居酒屋でもさんざっぱら愚痴った。

それでも真っ直ぐ家に帰る気にはならなくて、俺は同僚と別れた後ふらふら歩いてアカデミーに向かった。

演習場や慰霊碑に向かう事も考えたけれど、夜中に阿吽の門を抜けるとなると手続きが面倒だし、酔っ払いの千鳥足丸出しで街中を歩いているのを誰かに見られたらちょっとなぁという些細な見栄を張ったりして

流石に里の中では迷惑が掛かる。それがわかるぐらいの理性は残っていたので、当直の奴に挨拶だけしてアカデミーの屋上に上った俺は、とりあえずの結界を張って叫びまくっているワケだ。

叫び過ぎて喉は痛いしカラカラだし、当直の奴も怪しむだろうからそろそろ帰ろうか。

「あー…仕事辞めてぇ…」

ポツリと呟いた途端に誰かに腕を引かれて、ぐらぐらする頭で振り向くと、カカシさんが立っていた。

「イルカ先生、仕事辞めるの?」

「へ…?」

カカシさんがなんで此処にいるのか、とか俺の張った結界は?とか、ぼんやりした頭には幾つか疑問が浮かんでいたけど。

カカシさんが掴んでいる腕は指が食い込んで痛かったし、何より片側しか見えていないカカシさんの目は思わず口を噤んでしまうぐらい真剣だったから、俺はじっとカカシさんを見る事しか出来なかった。

「仕事辞めるの?アカデミー?それとも忍?」

「…辞められるものなら全部辞めたいです、」

人間辞めたいとまでは思いませんけど。と付け加えると、カカシさんが掴んだ手の力と険しかった目元をフッと緩めた。

「驚かさないでよ。黙ってられなくて思わず出てきちゃったじゃないですか」

「ビックリしたのは俺の方です。いつから見てたんですか…」

「それは秘密。それにしても…何かあった?…って、あれだけ叫んでりゃ訊かなくても大体わかりますけど」

「す、すみません…。あの、バカ上忍ってのはカカシさんの事じゃないですから!」

「ん、わかってます。それにしてもイルカ先生、酒臭いね。匂いで酔っちゃいそう」

グッと顔を寄せられて、慌てて頭を退く。

「あの、」

「仕事ね、辞めたくなったらいつでも辞めていいですよ」

「…は?」

「俺が養ってあげますから」

「…はあ?」

「ああでも、養われるなんてのは男のプライドが許さないよね。そうだ、イルカ先生、仕事辞めたら俺んちでハウスキーパーすれば?破格の給料出しますよ」

ひとの腕を掴んだままニコニコと笑うカカシさんの提案は物凄く突拍子もない上にひとを馬鹿にしていて、俺は段々と胃の辺りがムカムカしてきた

ふざけんな、何がハウスキーパーだ。

破格の給料ってのにはちょっとグラッときたけど、そんなの御免だ。

(仕事だって一瞬本気で辞めたいと思った。でも俺は、)


「…馬鹿にしないで下さい」

「馬鹿になんかしてません。アカデミーの教師だって受付所だって、イルカ先生の代わりなんか幾らでもいるでしょ?アナタじゃなきゃダメなんて事のない仕事だもんね。アナタが辞めたら他の人間がアナタの居た椅子に座る、ただそれだけの事でしょ?」

「……ッ、」

俺がすぐに言い返せなかったのは、カカシさんが言ってる事が図星だったからだ。

俺の仕事は、俺じゃなくたって、誰だって務まる。

そうなるのが怖くて口に出した事はなかったけど、純然たる事実として俺はそれを知っていた。

だってほら、実際にこうやって言葉にして出されると、俺の存在意義なんか塵芥に等しくなってしまうじゃないか

「……」

悔しくて唇を噛み締める。

滲んだ涙を見られたくなくて俯くと、乾いたコンクリートにパタパタと小さな染みが落ちた。

「ちょっと…泣かないで下さいよ。俺が虐めてるみたいじゃないですか」

虐めてるくせに。中忍虐めて楽しいですか。そりゃあ大層楽しいでしょうね、貴方は代えの利かない写輪眼持ちの上忍様ですから。

そう言い返したかったのに、俺の唇はわなわなと震えるだけで言葉にはならなかった。

「…あー…その…えっとね、ハウスキーパーなんてのも、アナタじゃなくても代わりの人間なんて幾らでもいるでしょ?誰でも出来る事だし」

まだ言うか。カカシさんがこんなに性格の悪いひとだなんて知らなかった。

俯いたままの俺の視界には、自分の足と涙の粒が落ちたコンクリとカカシさんの足が映っていて、言葉が出ない代わりに臑でも蹴ってやろうかと思った矢先だった。

「でも、生徒達に慕われてる『アカデミーのイルカ先生』はひとりしかいなくって、俺を笑顔で迎えてくれる『受付所のイルカ先生』ってのもこの世にひとりしかいないワケじゃない?」

「…何が、言いたいんですか」

「だから…辞めないで下さい。アカデミーも受付も、もちろん忍も。しんどい任務が終わって戻ってきても、アナタが受付に座ってて笑顔で迎えてくれなくちゃ、全然帰ってきた気がしない。里にアナタがいるから頑張れるんです。俺にとって、代えなんか利かない特別なひとなんです、イルカ先生は」

「………」

俺の耳が正常なら、なんだかスゴい事を聞いた気がする

カカシさんの言葉は徐々に尻つぼみになっていたけど。

結界の張られた屋上では、しっかりと聞きとれた。

言葉がゆっくり脳に伝わって、言われた言葉が物凄い意味を持っているのを理解した途端、顔に熱が集まってくる。

「…まだ足りませんか?」

俺を思いとどまらせる言葉が、という意味だったのだと思う。

覗き込んできたカカシさんから顔を逸らして、ブンブンと腕を振った。

「じゅ、充分です!俺、仕事辞めませんから!腕、離して下さい!」

「俺ねぇ、口約束は信用しないタチなんです。ね、イルカ先生、目を見て言って?」

「そ、そんなの無理です!」

「無理じゃないでしょ、目を見るぐらい」

「だってあんな言い方…」

「ん?」

「く、口説かれてるみたいで…」

「……」

「それにほら、俺すごく酒臭いし、恥ずかしくて顔赤い……し、っ!?」

グズグズ言い訳をしていると、カカシさんに掴まれている手の甲に何かが触れた

驚いて視線をやったらカカシさんが恭しく俺の手に口付けていて、二度驚いた。

「口説かれてるみたい、じゃなくて、口説いてるんです。もし嫌じゃなかったら、俺との事、考えてみて。…勿論、ハウスキーパーの話じゃないですよ?」

真面目な顔をしたカカシさんは言うだけ言って、俺の前から姿を消した。

その後、どれぐらい時間が経ったのかわからないけど、腰が抜けてその場にへたり込んでいた俺は、様子を見に来た宿直に『さっさと帰れ!』と怒られたのだった。




end

バスルーム

人間には誰しも『初めて』というものがある。

細かく言えば、毎日当たり前に訪れる今日一日という日を二十四時間で区切ったとして。

『昨日の朝七時』『今日の朝七時』『明日の朝七時』は誰の身にも同じように巡ってくるものだけど、厳密にはどの七時も一瞬として『同じ七時』ではないのだ。

判で押したような生活。
変わり映えのない日常。
同じ毎日の繰り返し。

日々が退屈だと辟易して声高に叫ぶ人達は、刺激のない人生に嫌気がさしているのだろう。

だが、考えてみて欲しい。

昨日の朝七時、目覚ましに起こされて目を覚ます。

今日の朝七時、目覚ましに起こされて目を覚ます。

果たしてこのふたつは、まるっきり同じであると断言出来るだろうか?

同じだと思っている日常を、切り取って並べて見る事が出来たとしたら。

難しい間違い探しのように小さなものだったとしても、はっきりとふたつの違いがわかるに違いない。

空が晴れていたり、曇っていたり。

昨日はやかましいほどに聞こえていた鳥の囀りが全く聞こえなかったり。

枕の位置ひとつとっても、昨日と一ミリのズレもなく同じだとは言えないと思う。

要は本当に些細な違いが、毎日毎分毎秒を、それぞれ違うものにしているという事

だから、生きとし生けるものにとって日々の経験は、全て『初めて』のものなのだ。

極論だと思うのも仕方がない。

俺自身、風呂に入って体を洗っているうちに取り留めのないそんな考えが次々と浮かんできて、ほとほと困っているのだから。

長風呂は得意な方じゃない。

どちらかと言えばカラスの行水の部類に入るほど早風呂の俺が、今日は体の隅々どころか爪の間までしっかりと洗っているのには、訳がある。





今、俺の家には、イルカ先生がいる

恐らくリビングでテレビでも見ているか、そわそわと落ち着きなく部屋をうろついているであろうイルカ先生が、何故俺の部屋にいるかと言えば……

『初体験』の為である。

初体験、男同士で何を馬鹿な事をと思うなかれ。

俺とイルカ先生はれっきとした恋人同士で、俺にしては珍しく『告白』という段階をきちんと踏んで交際に至ったのだ。

手を繋いで、キスをして、まるで子供の恋愛ごっこのようなそれは想いが通じ合ってからも暫く続き。

紳士ぶるつもりはないけれど、彼に俺の本気を伝えるには粘り強く『その時』が来るのを待つしかなかったのだ。

そして訪れた、来たるべき日。

さらば、ヒトリアソビの日々よ!

ようこそ、オトナのお付き合い!

これでもう、アスマや紅に『はぐ〇上忍純情派』やら『カカシのムスコはロングバケー〇ョン』とか、ドラマの名前をもじってからかわれる事はなくなるのだ

それにしてもイルカ先生が何故今日、いきなりどうしてそんな気になったのかはわからない。

けれど俺はこの好機を逃すほど甘くはないし、ヒトリアソビの日々への我慢も限界に近かった。

勿論イルカ先生の気持ちを尊重して、彼を大事にしたいし優しくしたい、当然ながら一緒に気持ち良くなりたい。

晩酌兼夕飯を済ませた帰り道、ほろ酔いだったイルカ先生がしなだれかかってきた時は深夜の里中にも関わらず叫びそうになってしまったけど。

彼の意図を汲んで『どこに行きますか?』と訊いた俺に、『俺…カカシさんちがいいです…』なんて恥ずかしそうに言われてしまえば一も二もあるワケがない。

自分とそう変わらない体格の彼をガッと抱え上げて街中を疾走し、危うく窓を突き破って家に飛び込みそうになった俺は、イルカ先生に止めてもらって漸く正気を取り戻した

玄関に回って慌てて鍵を探し、鍵穴に差そうとしても指先がブルブル震えて鍵は入らないし(この時ほど音声認証か指紋認証にしとけば良かったと思った事はない)

最近はずっとイルカ先生の家に入り浸りだったから、部屋は荒れ放題で見るも無残な状態だったし(上忍の俊敏さを使って、五分でなんとか片付けた)

しばらく使ってなかった風呂もやっぱり汚くて、結局俺が掃除して入った後にイルカ先生に入ってもらう事にしたのだ。

で、無駄に力を入れて体を洗っていたら、僅かばかりトリップしてしまったらしい。

毎日全てが初体験?

それは最早どうでもいい。

今現在の最重要課題は、恐らく男相手は初めてだと思われるイルカ先生と、二十余年の人生で同性を抱く機会など一度として訪れなかった俺の、本当の意味での初体験。

これが成功するか否かに限るのだ

待ちわびた今日という日に備えて情けなくもアスマと紅に相談した俺は、教材だと笑って渡された色々なモノに見事に拒否反応を示した(何故そんなモノを持ってんの。なんて愚問を投げるのは止めておいた。恐らくアスマの趣味じゃなくて紅のだから)

グラビアは兎も角、ゲイビと言われる映像ソフトにも自慢の愚息は萎える一方で(危うく勃起不全に陥るかと思った。あまりにガチだったのだ)

手順だけは吐き気を抑えて覚えたけれど、こんな有り様じゃイルカ先生と合体なんて…と彼を想像してイメージトレーニングしてみたら、それはもう見事にあっさり完勃ちして、それはそれで焦ってしまった(俺はサルなのか、それとも三十路手前だと思っていたのは俺だけで、体は成長を止めた十代だったのかと本気で悩んだ)

兎にも角にも現在進行系でその時は近付いており、漸く風呂から上がった俺はガシガシと体を拭きながら、果たしてイルカ先生に何と声を掛けるべきか考えている

「………よし、」

時は金なり、腹は決まった。

グズグズと考えるより先に、ひとり不安げに待っているイルカ先生を安心させてあげよう。




「………イルカせんせ?」

「っ、あ、カカシさん」

部屋の中央でぼんやりとテレビを見ていたイルカ先生は、声を掛けると弾かれたように顔を上げた。

やっぱり緊張しているのだろうか。

俺の方が年上だし、余裕のあるところを見せなくては。

「風呂、どうぞ」

「はっ、ははははい!」

バタバタと駆けていくイルカ先生、ああ、なんて可愛いんだろう。

今日は、もっともっと色んな顔を見たい。

上手くやれる自信はないけど、沢山時間を掛けてゆっくりやれば大丈夫だろう。

なんなら挿入無しでもいいや。

初心者同士には敷居が高過ぎる気もするし。

沢山キスして色んな所を触って、抱き締めて眠るだけでもきっと存分に満たされると思う

そんな事を考えながら頭に乗せたタオルで髪を拭いていると、ドタバタと足音がしてイルカ先生が戻ってきた。

「…?イルカ先生?」

「俺、帰ります」

「えっ?な、なんで!?」

何故急にそんな事を?

まさか、風呂で一発抜いたのがバレた?

いやいや、だって、完勃ちしたままイルカ先生の前に立ったら怖がらせちゃうかも知れないし、何より俺が恥ずかしい。

実際そうだとしても、がっついてるように見られるのは年上の沽券に関わるのだ。

任務でハッタリかますのは日常茶飯事で全然平気、ありのままの俺を好きでいて欲しいけど、最初の最初ぐらい恋人に見栄張ったって、バチは当たらないでショ?

それともアレだろうか、慌てて部屋を片付けたから、イルカ先生が見たら俺を軽蔑しそうな何かが出てきた?

紅に貸してもらった教材は隠し棚の中だし、イチャパラは今更見られて困るものじゃない。

…もしかしたらアレ?

ベッドサイドに置いたローションやティッシュの箱、その他諸々の何かに引いちゃった?

でもだって、準備万端にしておかないといざという時お互い困るし。

ベッドの上の写真立ては流石にいたたまれなくなってふたつとも伏せたから、彼の教え子や俺の先生に覗かれているような気分になるのは避けられたと思う。

なのに、何故?

「怖くなりました?」

「…違います」

「やっぱり俺とはイヤ?」

「違います!あ、あの、俺……」

「ねぇお願い、帰るだなんて言わないで下さい。その…何もしなくてもいいから…俺んちに泊まっていって?」

何もしなくても、なんて嘘八百もいいところだ。

けれどこのままイルカ先生を帰してしまったら、今後ダメになってしまう気がする。

どちらか片方だけじゃなくて、これはきっと、ふたりの問題だ。

「ね?」

「…俺、どうしても帰りたいんです。カカシさん、わかって下さい。お願いします」

「…言えないぐらいの理由があるの?」

「い、言えなくはないんですけど…」

「それなら言って下さい。俺でどうにか出来る事なら、どうにかしてあげたい。俺達、恋人同士でしょ?」

ぐっと唇を噛み締めて俯いてしまったイルカ先生の、次の言葉を辛抱強く待つ。

音量を抑えたテレビには深夜のバラエティー番組が流れていて、いつもならふたりで笑って見ていたその番組が、今はやけに薄っぺらくつまらなく感じた。

まるで別れ話のような雰囲気に、胃の辺りがキリキリし始めた時。

「ふ、風呂が…」

「風呂?」

「風呂が、ダメなんです」

「風呂がダメ?」

言葉の意味がわからずオウム返しをする俺にじれたのか、イルカ先生は急に声を荒げた

「俺、ユニットバスだけは、ホントに、どうしても駄目なんです!」

「…は?ユニットバス?」

「カカシさんがイヤとか駄目とかじゃなくて、兎に角ユニットバスが駄目なんです!だ、だって、風呂の中にトイレって……トイレの中に風呂?かもしれませんけど、全然風呂入った気しないし、カカシさんと初めてするっていうのにシャワーだけってのも嫌だし、かと言って風呂も入らずになんて、もう、絶対、本当に無理です!」

そこまで一息にまくし立てて、イルカ先生はぜぇぜぇと息を吐いた。

ユニットバスがダメ。

俺との初めてを、風呂を入らずには無理。

「ちょっともう!」

「なななななんですか!?」

「あー…すみません、何か感極まっちゃって…」

「理由、わかっていただけました?…帰ってもいいですか?」

「ダーメ。帰るなら俺も一緒について行きます。で、イルカ先生んちでシましょ」

「そっ……それはもっとダメです!」

「なんで?」

「……が……だと思うし………」

「聞こえるように言ってくれないと、今すぐ襲いますヨー」

「襲っ……!……お、俺っ、声大きいかも知れないんで!俺んち壁薄いし、隣に聞こえたらと思うと、」

「声大きいの?…もしかして、経験ある?」

「ないですよ!あってたまるか!」

射殺さんばかりに睨み付けてきた真っ赤な顔のイルカ先生に、自然と顔がにやけてしまう

紛れもない『初体験』

初物にこだわる程オッサンなつもりはなかったけど、彼の口から聞けた揺るぎない事実が純粋に嬉しい。

だから、今日は無理にしなくてもいいや。と思えた。

「わかりました。本当に何もしないから、イルカ先生んち行きましょ?」

「…約束ですよ」

「はい」

着替えるからちょっと待ってて。と言った俺を置いて、イルカ先生はさっさと家を出て行ってしまった。

照れ隠しなんだろうけど、俺はすぐに追い付いちゃいますよ。

とりあえず、最優先の攻略目標を変更しなければいけなくなった。

何かって?

イルカ先生んちの壁を厚くする事は出来ないから、俺が『風呂・トイレ別の部屋に引っ越す事』でしょ?




end

必要不可欠

 血生臭い任務の後に気が高ぶるなんて事、これまで何度も経験してきていて。

今より血気盛んだった頃は、血水の匂いを漂わせたまま花街に出掛けたりもしていたけれど。

ある程度年食ってそういった欲もやや収まってくると、冷水を浴びて布団にくるまって寝てしまう。なんて事が当たり前になってきていた。

好きなひとが出来たから尚更、

真っ直ぐなあのひとに顔向け出来なくなるような事は止めようと、心に決めた。

決めていた筈なのに。







人手不足を理由に暗部の任務に駆り出された。

胸糞悪くなるような殺しを押し付けた火影にぶつくさと文句を垂れながら、精神的に疲れた体を引きずって帰宅。

血で汚れた得物を玄関先に放り出して、ガタガタと乱暴に音を立てながら浴室に引っ込む。

頭の天辺から水を浴びて腹の底から息を吐くと、耳の後ろがやけにドクドクと五月蝿く脈打ち、否が応でも自分が生きている事を知らしめるのだ。

「……」

ざっと体を拭くとタオルを腰に巻き、冷蔵庫を覗く。

水しか入っていない鉄の匣はブゥンと耳障りな音を立てていて、空っぽな自分のようで少しだけ笑いが洩れた。

 …コン、コン。

「…?」

遠慮がちなノックの音。

扉の向こうに神経を研ぎ澄ませてみれば、誰あろう今一番会いたくて会いたくないひとの気配がした。

裸足のまま向かった玄関先で、僅かに逡巡した俺の気配を察したのか、扉の向こうから気遣うような小さな声。

「カカシさん?」

「…イルカ先生、何か御用ですか」

「あの、俺、煮物作り過ぎちゃってお裾分けに来たんですけど…」

扉の向こうは屋外なのに、俺が愛して止まない日常がある。

俺がそう思っているだけで、実はかりそめなのかも知れない、けれど温かい、俺の切望する日常。

イルカ先生がいて、温かい食事を分け合って笑って、話しをして。

「えっと…ドアノブに掛けとくんで、良かったら明日の朝にでも、…っ!?」

「帰んないで。上がってって下さい」

勢い良く扉を開け、驚いて身を退いたイルカ先生の腕を掴んで自分の胸の中に閉じ込める。

そろりと手を回され、ゆっくりと背中をさする温かい掌に視界がぼやけた。



















「あー……」

寝乱れたベッドの上で、ぐしゃぐしゃと頭を掻き混ぜた。

隣にいる筈のひとの姿はそこに無くて、彼がいた場所に手をやるとひんやりと冷たい。

その冷たさが『お前は勘違いをしたんだ』と、彼の代わりに俺を詰っているように思えてなんとも情け無い心持ちになる。

受け入れられたと勘違いして、イルカ先生を抱いた。

決して合意だなんて呼べない。

すがりついて謝って、何か言いたげなイルカ先生の唇を無理矢理に塞いで、気遣う余裕もなく強引に躯を繋いだ。

馬鹿みたいに繰り返した『好き』の言葉は、痛みに耐える事で精一杯だった彼の耳には届いていなかっただろう。

のそりと体を起こしてリビングに向かえば、テーブルの上にお裾分けだと持って来られたタッパーが置いたままになっていた。

蓋を開けて、ひとつ摘んでみる。

「…うまいね」

冷めていても味の染みた小さな根菜の欠片は、まるでイルカ先生そのものみたいな優しい味がした。
















「あっ!まだそんな格好で!風呂ぐらい入って下さいよカカシさん」

「んぐっ、……イ、イルカせんせ…?」

咎める声に危うく煮物を喉に詰まらせそうになって振り向くと、両手に買い物袋を下げたイルカ先生が立っていた。

「まったく…風邪引いたらどうするんですか」

ぶつぶつと小言を漏らしながら、袋の中身を冷蔵庫の中へ詰めていく。

「え、あの…なんで…」

「なんでって、朝飯作ろうと思ったら冷蔵庫の中空っぽだし…」

「そうでなくて、」

「…カカシさん、兎に角風呂に入って下さい。冷水じゃなくて、ちゃんとお湯でお願いします。俺、朝飯作って待ってますから」

有無を言わさずタオルを押し付けられて、渋々と浴室へ向かう。

振り向くと、台所に立ったイルカ先生は腰をさすっていて、なんだかいたたまれなくなった。

「カカシさん、」

「…はい?」

「人間、腹が減ってるとロクな事を考えないんですよ」

タイミング良く鳴った腹に手を当てて『そうですね』と苦笑いすると、イルカ先生は『そうでしょう』と笑って、中身のぎっしり詰まった冷蔵庫を勢い良く閉めた




end

子供のころの話

美しく病弱な母は、俺が物心つく前に亡くなった。

俺が彼女について覚えているのは透けるように白い肌と、体に染み付いてしまった薬品の匂いとそれから、

『貴方はお父さん似ね』

そう言って寂しげに、儚げに笑って、父親譲りの俺の髪を愛おしそうに梳いた細い指先の感触。





父は歴戦の戦忍、俺が小さな頃から任務で家を空ける事が多かった。

父は俺の憧れで、母を亡くした後アカデミーに入学した俺は一日でも早く卒業出来るよう、死に物狂いで勉強した。

体を鍛えて、新しい術を覚えて。

(父さんと一緒に任務に出たい)

(父さんに褒められたい)

その一心で頑張っても、明かりのない独りの家に帰るのは無性に寂しくて。

公園や演習場で修行をして時間を潰しては、家に帰るのを遅らせていた。

(夜には父さんが帰って来るかも知れない)

淡い希望を抱いては、打ち砕かれる日々。





その日も演習場での修行を終えた俺は、夕暮れの公園前を独りトボトボと歩いていた

(……?)

公園の中から聞こえてきたのは赤ん坊の泣き声と、それをあやす母親の優しい声。

俺の足は自然とそちらに向き、気配を消して遊具の影からこっそりとベンチに座る女性を窺い見た。

「いい子ね、泣かないの」

長い黒髪の女性は、腕に抱えた赤ん坊に温かい眼差しと声を向けている

「ほら、お兄ちゃんに笑われるわよ」

完全に気配を消している筈の俺に気付いた彼女は、俺の方に赤ん坊を向けてにっこり微笑んだ。

(このひとも、忍なんだろうか)

此方へいらっしゃいと手招く女性に誘われ、俺は恐る恐るとベンチへ近寄った。

女性の腕に抱かれた赤ん坊は、一歳になるかならないかぐらいの丸々とした男の子。

小さな歯の数本生えた口を大きく開けて泣いていた赤ん坊は、俺を見るとピタリと泣き止んだ。

涙を湛えた黒曜石のような真っ黒な目が俺を射抜いて、俺はピクリとも動けなくなる。

「あらあら、お兄ちゃんが好きなの?」

淡い水色のガーゼで赤ん坊の顔を拭った女性は、鈴を鳴らしたような涼やかな声で笑った。

「抱っこしてみる?」

「…いいの?」

赤ん坊なんて、抱いた事がなかった。

何より修業のせいで泥だらけだった俺の手は、赤ん坊を触るには不相応な気がして。

「大丈夫、此処に座って」

腕を引かれ、彼女の膝の上に座らされる。

俺を包むようにして、女性は俺の腕の中にそっと赤ん坊を置いた

ぐにゃぐにゃした赤ん坊の体はどの部分も小さいのにしっかりと人間で、まるで精巧な人形のよう。

「ちいさいね」

「昔は貴方も小さかったのよ」

ふふ、と笑う女性は、赤ん坊を抱いてまじまじとその顔を見る俺の頭を優しく撫でた。

「綺麗な髪」

「おれの髪は、父さん似なんだって」

「そうなの。とても綺麗ね、まるで星の色だわ」

うっとりとした声音で俺の髪を梳く彼女の指は、亡くした母を思い出させる程に優しかった


それから暫く、俺は彼女と他愛もない話をして時間を過ごした

赤ん坊は終始ご機嫌で、俺と彼の母親の話を聞いているかのように、時折言葉にならない声を上げて笑う。

穏やかな時間。

夜の帳が降りて、『さようなら』と別れるまで、俺の心は満たされていた。

「それじゃあね」

赤ん坊を抱いて去っていく後ろ姿に、胸がキュウと締め付けられる。

(俺も連れて行って)

そう叫びたくなるのをこらえて、俺は彼女が見えなくなるまで手を振った。




「惜しむらくは彼女の名前を聞かなかった事ですね。カカシさん」

「聞いた所で子持ちの人妻さんですよ。子供ながらに『これが初恋かなぁ』なんてマセた事を暫く考えもしましたけど…母性を求めてただけだと思うんですよね」

「初恋でいいじゃないですか。その方が何だか素敵です」

「うーん…」

「…で?その後何処かでばったり、なんて事はなかったんですか?」

「結局あれから一度も彼女にも赤ちゃんにも会えませんでした。俺はそれから一年足らずでアカデミーを卒業して、早々に任務に就かされてあっち行ったりこっち行ったりしてましたから。この公園に来たのも、二十余年ぶりです」

「そうですか…彼女も貴方に会いたくて、何度も足を運んだかも知れませんね」

「そうだと嬉しいです。…さ、俺の話はおしまい。次はイルカ先生の番ですよ」

「それじゃあ…俺の母親から聞いた、この公園にまつわる話を」

「はい」

「俺の母親は、俺がまだ赤ん坊の頃この公園で、星色の髪をした少年に会ったそうです」

「……え?」

「ああそうだ。どうでもいい補足ですけどね、俺の母親は少し変わっていて、言う色の名前がいつもあやふやだったんですよ。オレンジは夕日の色、緑は柔らかい葉っぱの色ってな具合に」

「あの、」

「夕日の色ってんなら何となくわかりますが、星の色なんて、見た事ないでしょう?」

「イルカせんせ」

「凄く綺麗な星色の髪をした少年と話をしたのよ。なんて、物心ついた俺に自慢げに言うんです。イルカはその子に抱っこしてもらって嬉しそうだった。って」

「………」

「何度もその話をするから、俺なりに彼の姿を想像してたんですよ。星色の髪ってどんなだろう。もし会えたら、彼と友達になれないかなって…」

「……ここに、通ったんですか?」

「はい。会える保障も無いのに、何度も何度も」

「その…イルカ先生は、今もその子と友達になりたい?」

「うーん…残念ながら、既に友達以上ですからねぇ。今更友達になるのは難しいんじゃないですか?」

「あの…色々ごめんなさい」

「カカシさん、そこは謝る所じゃないです」

「…はい」

「ああもう、そんなにしょぼくれないで下さいよ!俺がイジメてるみたいです」

「だって、ねぇ?」

「一時は、母ちゃんの言う事を疑いもしたんですけどね。星の色なんてないんじゃないか、あっても母ちゃん以外には見えないんじゃないかって」

「あのぅ…すごく馬鹿な事を聞きますけど…見えました?星の色に」

「はい、一目でわかりました。カカシさんの髪は、紛れもなく星の色です」

そうにっこり笑って俺の髪を梳いたイルカ先生の指は武骨で、何処をどうひっくり返しても男の指。


俺の母やあの日会った彼の母親のような細さや柔らかさはない。

それでも彼女達と同じように、いや、それ以上に優しく愛おしむように動くその指がたまらなく嬉しくて幸せで。

俺はあの日より随分大きくなった彼を両腕で抱き締めた。

俺達の上には満天の星。

きっと空から見ているだろう俺達の母親に、大切なひとに褒められた俺の星色の髪が目印になればいいのに。

ふとそんな事を思った。




end

餌付け作戦

うみのイルカ、26歳。

木ノ葉の里に暮らしていて、職業はアカデミー教師。

階級は中忍。

恋人いない歴三年。

当時付き合っていた彼女の二股が原因で別れて、それから女は懲り懲りだ。と思っている。

やっぱりさっきの嘘。

懲り懲りだ。なんて言える程不自由してないワケじゃない。

有り体に言えば俺はモテないのだ。

自慢じゃないが、アカデミーの生徒や保護者、中高年の方々やご老人には滅法モテる。

道を歩けば『イルカちゃん!これ持って帰りな』とお婆ちゃんに蜜柑だ桃だと持たされるし(俺が独り身だと知ってるくせに、いつもひとりじゃ食いきれないような量を寄越すのだ、煙草屋のウメさんは)

持たされた蜜柑の袋を下げて道を曲がれば、『イルカ先生、帰っても暇だろ?一局打って行きなよ』と道端に設えた縁台に腰掛けた老人達に来い来いと手招きされる(はっきり言って、俺は将棋も碁も苦手だ。だって弱いから)

手練れの老人達に付き合わされて盤に向かっていると、『お爺ちゃんご飯ですよ』なんてお嫁さんが顔を出して。

こんばんは。と挨拶すれば『あらイルカ先生、晩御飯まだでしょう?うちで食べていってくださいな』と手を引かれ、断る間もなくあれやこれやと夕飯をご馳走になっていたりする。

ご馳走になったお礼に、『貰ったけど食べきれないから』とさっき貰った蜜柑をお裾分けすれば、『それじゃあ代わりにこれ持っていって』と、お嫁さんが漬けたらしい梅干しをタッパーごと袋に入れられて。

お邪魔しました。と頭を下げて家を出た所で、買い物帰りらしい生徒のお母さんと会って。

暫く立ち話をして、別れ際に蜜柑をお裾分けしたら『そうそう!特売で買ったんだけど、これ蜜柑のお礼ね』なんて蕎麦束を袋に突っ込まれて。

そんなこんなしていつもの道を抜けて家に帰る頃には蜜柑はふたつになっていて、袋の中には梅干しのタッパーと蕎麦、違うおばあちゃんに押し付けられた饅頭四個と、自分んちの畑で抜いてきたばかりだと泥だらけで笑う生徒に渡された葱が数本。

他にも飴玉や煎餅や花林糖なんか、お茶請けみたいな老人達のおやつをアレコレ袋に詰め込まれて、玄関の鍵を開ける頃には袋はパンパンになっていた。







「お帰りなさーい」

独り身の俺を間延びした声で迎えてくれたのは、上忍のカカシさん。

何故だか俺んちに入り浸りのこのひとが、普通に居間で寛いでいても俺は最早驚いたりしない。

「カカシさん、いらしてたんですか。夕飯は?」

「まだです。一緒に食べようと思ってたのに、イルカ先生食べてきちゃうんだもの」

下げていた袋を台所の流し台の上に置いて、額当てとベストを脱いだ。

今日は屋外演習があったから、少し埃っぽいそれを叩いて洗濯カゴに放り込む。

「え、見てたんですか」

「うん、屋根の上からね。今日もまた凄い戦利品ですね」

愛読書を閉じてのそのそと近付いてきたカカシさんは、袋の中を覗いて感嘆の溜息を漏らした。

「何かしら持たされるんですよね。そんなにひもじそうですか、俺」

ざっと手を洗って饅頭にかじりつきながら尋ねると、カカシさんは蜜柑の皮を剥きながらふわりと笑った。

「みんなイルカ先生が可愛くて仕方無いんデショ。モテモテでいいじゃない、おやつも沢山。何か問題でも?」

「…妙齢の女性にモテないのは俺にとっちゃ結構な問題なんですけどね」

「はは、縁は異なもの味なもの。デショ?」

「今の俺には、縁に連るれば唐の物。の方が近い気がします」

「言い得て妙ですね。んー…イルカ先生、お腹に余裕あります?」

「軽くなら。何か作って下さるんですか?」

半分に割った蜜柑をぱくりと食べると、カカシさんは袋の中身を物色し始めた。

「葱と梅干し、蕎麦とくれば、梅蕎麦かな。前貰った鰹節、まだ残ってるんでしょ?」

意外や意外、親しくしてから知ったのだけど、カカシさんは料理上手なのだ。

部屋で二人で呑んでいて、酒の肴が足りませんねーなんてちょっと席を立ったかと思うと、冷蔵庫の中のものでパパッと何かしら作ってきてくれる

カカシさんの意外な一面を見てしまった俺は、彼の素顔を見た時と同じように(天は二物を与えず、なんてのは嘘っぱちだよなぁ)としみじみ思ったのだった。

「あ、鰹節、削りましょうか?」

「適当にやっとくんで、アナタはお風呂に入っちゃいなさい」

「はーい」

多分、邪魔なんだろうなぁ。

俺んちの台所狭いし、俺はカカシさんほど料理は上手くない。

俺はカカシさんの言葉に従って、埃っぽい身体を清める為に風呂場に飛び込んだ。

服を脱いでカゴに放り込み、髪紐も放り投げてシャワーを捻る。

誰かが見たら、中忍の癖に上忍をこき使って!なんて非難を受けそうな状況だろう。

そりゃそうだ。

俺だって未だに(いいんだろうか?)と思うけど。

カカシさんがそれでいいって言うんだから、しがない中忍の俺にそれ以上何が言えるってんだよ。










さっぱりして居間に戻ると、小さな卓袱台の上に見た目も旨そうな梅蕎麦と、キンキンに冷えたビール、カカシさんが夕飯にと買ってきていたらしい惣菜が並べられていた

「うわ、うまそー」

「見た目だけじゃなくて、味もちゃんと旨いですよー?」

ハイ座った座った。と促されて、おとなしく席につく。

いただきます。と手を合わせて箸をつけた梅蕎麦は、やっぱり旨かった。

「うまっ!」

「ご馳走になってきたでしょうに。おかわりしなかったんですか?」

つるつるの蕎麦に梅肉のさっぱり加減、白ゴマの香ばしさと葱の苦味がピリリと効いて、ぐいぐい箸が進む俺にカカシさんが苦笑する。

「いや…だって、流石に三杯目は…遠慮しましたよ?」

「二杯は食べたんだ」

「食べましたよ。腹減ってたんですもん」

「イルカ先生は餌付けのし甲斐があるよね、幸せそうに食べるもの」

「餌付け…」

「そ、餌付け。早いとこ俺に懐いて下さいね」

にこにこ笑うカカシさんに『もう懐いてるんですけど』なんてとても言えなくて、俺は一息にビールを飲み干した。




end

ふたりで逃げよう

深夜の来訪者には慣れている。

好きで慣れたんじゃない、慣れざるを得なかったんだ。

どれだけ厳重に施錠しようが、家主である俺が部屋に居ようが居まいが関係無い。

里一番の業師は風のように窓からスルリと入り込んで、ふてぶてしい野良猫のように俺のベッドを占領している。

胎児みたいに体を丸めて眠るそのひとに、最初こそ恐れ慄いて遠慮したり慣れない気遣いなんかもしたけれど。

途中から面倒くさくなって放棄した。

気遣おうが普段通りにしていようが、時にはカッとなって口汚く罵ったって、あのひとは平然としているのだ。

飄々としているからといって、図々しいわけでも達観しているわけでもない。

『はたけカカシ』というひとはそういう生き物なんだと受け入れるしかなかった。

自分より遥かに優位にいる他人が部屋に居座っている事実に苛々することを止めてから、彼の存在は俺にとって当たり前でいてかけがえのないものになった。

俺とカカシさんの間に、特に際立った会話はない。

 飯食いますか。
 風呂入って下さい。
 もう寝ますよ。

 はい。
 ありがとうございます。
 おやすみなさい。

狭いシングルベッドに、背中合わせになって眠る。

客用布団を出しても頑として使ってくれなかったし、俺が客用布団に潜り込むと其方に入ってくるのだ。

耐えかねて俺がベッドに戻ろうとしたら腕をひっ掴まれ、無理矢理布団に押し付けられたからホントに馬鹿らしくなった。

寝物語はしない。

互いにおやすみなさいと言って布団を被ったら、瞼を閉じて眠るだけ。

次に瞼を開ければ、朝が来ている




















「俺、里抜けしようと思います」

寝入りしなのカカシさんの言葉に、思わず寝返りを打った。

真っ暗な部屋、狭いベッドの上で、彼は横になったままじっと俺を見詰めていた。

俺は彼の突然の言葉に、まず(困ったなぁ)と思う。

カカシさんは饒舌な方ではない。

普段は俺ばかりが一方的に喋っているような感じで、カカシさんは聞いている意思表示に相槌をひとつふたつ返すばかり。

此方も最初こそ物足りなく感じたり憤ったりしたが、はたけカカシはそういうひとだと思うようになってからは気にならなくなっていた。

彼の発する言葉は柔らかくて短い。

けれど、時には冗句も言うし、不意に訥々と自分の考えを語り出すこともある。

彼が冗句でなく、真剣に今の言葉を紡いだことに(困ったなぁ)と思ったのだ。

そして、次に続くであろう言葉にも。

「一緒に、来てくれませんか」

何処までも真摯な声が、夜のひんやりとした空気を震わす。

俺は深呼吸をひとつして、左右色違いの綺麗な目を見つめて答えた。

「行きません」

「…駄目ですか」

表情は変わらなかったけれど、カカシさんの声は落胆していた。

「一緒には行けませんが、俺は貴方が里抜けして十日経ったら追い忍部隊に転属願いを出して、全力で貴方を追います」

「十日…?」

「はい。アカデミーの引き継ぎや何かもありますし。部屋を引き払ったり家財を処分したり…」

 だから、

「貴方はその十日で、出来る限り遠くまで逃げて下さい」

「十日もあったら…俺は世界の果てまで逃げてしまいますよ?」

「それなら俺は、世界の果てまで貴方を追い掛けましょう」

カカシさんは、フッと口元を緩めた。

「そんなの、里を抜けるのと変わらないじゃない」

「違います。俺は追い忍として貴方を追って里を出るんです。抜け忍とは違いますよ」

「ふふ、アナタに俺が見つけられますかねぇ」

「中忍ナメないで下さい。その気になれば、貴方が世界の果てに着く前に捕まえて差し上げますよ」

 ああでも、

「本当に里を抜ける時は俺がわかるように、何か目印を残して行って下さいね」

「そうですね…俺の宝物、あのクナイを玄関先にでも刺しておきましょうか」

白銀のクナイ。

彼の父親の形見だった忍刀。

折れたそれを打ち直して作ったのだと、一度だけ見せてくれた。

彼の髪のような、強くて美しい銀色。

「いいんですか?あれは貴方にとって、とても大切なものでしょう」

「アナタにわかる目印でないと意味が無いですし…追って来る時に持ってきて下さいね」










 そして、
 それで俺を殺して。






















必ず、そうして下さいね。

そう言うカカシさんにわかりました。と指切りをして、その晩は瞼を閉じた。

次に瞼を開けた時にはやはり朝で、カカシさんは既に横に居なかった。

それから幾日経っても白銀のクナイが俺の家の玄関に刺さる事はなかったし、あの夜から半月経っても俺が追い忍部隊に転属を願い出ることもなかった。

変わったことは、ふたつだけ。

深夜の来訪者が、窓からではなく玄関からやって来るようになったこと。

俺達の間に会話が増えたこと。

ただ、それだけだった。




end

第三者

 先輩はイルカさんと付き合わないんですか?と訊いたら、

『うん。俺達好き合ってはいるけど、付き合ったりはしないの』

と、僕には理解不能な答えが返ってきた。

好き合っている。という事は、お互いが相手を好きだとわかっているという事だろう。

にも関わらず、付き合わない?

先輩の言葉の意味が理解出来ず首を傾げた僕に、先輩は笑ってこう答えた。

『だって付き合っちゃったら、いつか別れが来て寂しい想いをするデショ』

えぇ?寂しいなら、別れなければいいじゃないですか。

『お前ねぇ、俺達は明日をも知れない忍でしょうが。イルカ先生は兎も角、前線出ずっぱりの俺はいつ何時死んでもおかしくなーいの。死は永遠の別れデショ?俺が死んじゃったらイルカ先生絶対泣くし』

まあ、それはそうでしょうね。

『俺はイルカ先生にはいつも笑顔でいて欲しいし、それにさ…』

なんです?

『俺はイルカ先生が死んじゃったら生きていけないけど、イルカ先生は俺が死んでも生きていけそうな気がするんだよね』

ああ、それは何となくわかります。

イルカさんは涙もろいけれど強いひとだ。

愛するひとを失ったからといって後追いなんてバカな真似はしそうにないし、彼の中には脈々と火の意志が受け継がれているから。

『デショ?それこそ付き合っちゃったりしたら、俺なんかすごくダメになりそうだもの。こう見えて独占欲強いしさ』

へぇ、意外。先輩ってそうなんですね。

『うん、多分あのひとだけになんだろうけどね』

付き合ってないのにわかるんですか?

『シュミレーションしてみたんだよ。やっぱりダメだったけど』

ダメって、何がですか。

『イルカ先生が俺以外の人に笑いかけたり、話しかけたり…まあ色々』

…それって、かなりのモノですね。

『ね、今は付き合ってないから、俺のじゃないんだって我慢出来てるけど』

でもですよ、先輩。

『何?』

付き合おうが付き合うまいが、イルカさんは先輩が死んだら泣くと思いますけど。

『えぇ?そう?』

そりゃそうでしょう。むしろ余計泣くんじゃないですか?

『なんで?』

先輩とイルカさんは、お互いの気持ちを知ってるんですよね?

『うん。好きだって言ったけど、お付き合いは出来ませんって言ったの、俺がね』

イルカさんは何も言わなかったんですか?

『何か言いたそうだったけど…わかりましたって言ってたよ』

…イルカさん、家帰って泣いたんじゃないですか。

『なんでよ?お互い好きだってわかったのに?』

好きなら普通、付き合って色々なコトしたいって思うじゃないですか。

『色々って?』

デートしたりキスしたり…ま、色々です。

『へぇ、お前にもそういう欲があるんだ』

当然ありますよ!…って、何言わせるんですか!

先輩は僕を何だと思ってるんですか。

『いやぁ、お前も一人前の男になったんだなーって思っただけ。他意はなーいよ』

……ま、いいです。

『うん。…で、なんでイルカ先生が泣くの?』

つまり、僕が言いたいのはですね。

『うんうん』

気持ちを知ってるのに付き合わない分、想いが増すんじゃないかってコトです。

『…は?意味わかんないんだけど』

だって好きなのに、ただそれだけでしょう?

『うん、好き。それだけで何が悪いワケ?』

えっと、だから、つまりその…。

『何、ハッキリしないねお前。酔ってんの?』

思い出があるのとないのとじゃ、重みが違うと思うんですよ、僕は。

『重み…ねぇ』

いずれどちらかが先立つとしても、思い出があった方がいいと思うんですけど。

『それって理想論じゃない?色々思い出して、余計つらくなるかも知れない』

先輩の言う事はもっともだけど。

僕はそれでもいいと思う。

いずれ失う日を恐れて手に入れないでいるより、今この時を大事にしたい。

ひとに与えられた時間は、決して無限ではないから。

どんなカタチであれ、日々を謳歌したいと、あのひともそう思ってるんじゃないだろうか。

瞼に浮かんだイルカさんの笑顔に、何となくそう思っていたら。

『お前に説教される日が来るとは思わなかったよ』

先輩はゆっくり腰を上げて、テーブルに伏せられていた伝票をつまみ上げた。

『久しぶりに優しい先輩が奢ってあげまショ。後輩のご高説の御礼にね』

伝票をひらひら揺らして去っていく先輩は何処か楽しそうで。

イルカさんちに行くんですか?と訊いたら。

『この野暮テン』

と返された。




end