この世で一番怖いもの・前編
「イルカ先生を好きになるんじゃなかったなぁ…」
思っていても、口にしてはいけない事もある。
飛び出た言葉は戻らないし、聞いた人の記憶からも易々と消えはしないから。
男の嫉妬は醜いだなんて言葉は妬く相手もいない侘びしい野郎の妬みか、妬いているのに素直にそうとは言えない虚栄心の塊な男の言った言葉だと思う。
男だって人間だ。
嫉妬もするし、時には女以上に独占欲も抱く。
目下嫉妬炸裂中の俺が言うんだから間違いない。
「紅のやつ支度に時間が掛かるからよ。置いて先に来ちまった」
そう言ってアスマはサンダルを脱いで座敷に上がると、イルカ先生の横に腰を下ろして注文を聞きに来た店員にいつものヤツを頼んだ。
アスマより先に着いていた俺達は、通された四人用の座敷を見て『男二人が並んで座って待つのもアレだよねぇ』なんて会話をしながらそれぞれ対面に座ったのだ。
俺としてはイルカ先生の横が良かったんだけど、店員に変な目で見られるのをイルカ先生が嫌がったし、横よりも対面の方が彼の顔が良く見えるからまあいっかーなんて軽く考えていたのだけど。
例え変な目で見られようがイルカ先生の顔が見づらかろうが横に座れば良かったのだ。
アスマとイルカ先生は、横に並べちゃダメ。
俺とイルカ先生、アスマと紅。
時折集まっては酒を飲んだり飯を食ったりする。
アスマや紅は上忍だ中忍だと階級を気にする人間ではないし、第一に俺とイルカ先生が付き合っているのを知っている数少ない理解者で。
気兼ねなく色々な話が出来るし、俺達上忍師の現在の部下はもれなくイルカ先生がアカデミーで担任した生徒達だから、彼らの近況報告も兼ねていたりもする。
子供達の成長を何より喜ぶイルカ先生の笑顔は、見ている俺にとっては何にも代え難い酒の肴。
酒飲みなアスマや紅も、たまに催すこの集まりに満更でもなさそうだった。
イルカ先生も楽しくて、俺も楽しい、嗚呼なんて素敵な食事会!
なーんて。そんなのは最初の一、二回だけで、ある時を境に俺は全然楽しくなくなってしまったのだ。
理由はわかっている。
『アスマとイルカ先生が仲良過ぎて、妬けて妬けて仕方がない』
そりゃあ二人は、イルカ先生が子供の頃から知り合いで。
単純計算で俺の三倍以上の年数を過ごしているワケだけど。
アスマだって若い頃はずっと里に居たワケじゃないし、同じ場所で同じように過ごした時間の密度も濃度も、俺の方が遥かに上だというのに。
悲しいかな、人間は年を取って酒が入ると、不思議と昔話に花が咲く生き物なのだ。
子供の頃はああだった、昔はこうだったなんて話の方が、最近流行りの何々は~なんて話よりやたら盛り上がる。
俺も暗部時代の旧友や後輩と飲みに行けばそんな話ばかりだし、アスマやガイ達と飲んでもそんな感じだから、楽しいのはわかる。
わかるけど。
「女性は支度に時間が掛かるものなんです。置いて先に来ちゃうなんてヒドいですよ」
「お前らと飲むのにめかし込む必要ねぇだろ」
「アスマさんは女心がわかってないです」
「お?言うようになったなイルカー。女にフラれてべそべそ泣いてたのは何処のどいつだよ」
そう言ってアスマは、イルカ先生の頭をぐりぐり撫でた。
イルカ先生も『もー、やめてくださいよー』なんて言いながらも楽しそうで嬉しそう。
二人は血の繋がりこそないけれど、互いを兄弟のように思っていて、やり取りにも遠慮がない。
アスマは面倒見のいい性分だし、イルカ先生にとって甘えられる年上の人間なんか皆無に等しいから、単純にアスマとこうして飲めるのが嬉しいのだろう。
勿論それはただの思慕で、それ以上の感情を邪推するのは無駄な事だ。
わかってる。充分過ぎる程わかってるんだけど、やっぱりダメ。
俺はイルカ先生の事に関しては、物凄く度量が狭い。
イルカ先生に強請って強請って、漸く言ってもらえた『好き』の言葉も、付きまとう不安には適わない。
生きてきた道筋の違う俺達に足りないのは、過去の思い出。
「ちょっとカカシ、その顔やめてよ」
紅が合流して暫く、アスマとイルカ先生がトイレへと席を外した途端、俺の横に座る紅が俺の頬を突いた。
「その顔ってどの顔よ?」
「アスマに妬いてるの?アンタも意外と可愛い所があるのね」
こういう時女は敏いから困る。
特に、幻術に特化したくのいちは厄介だ。
小さな言葉や僅かな所作の端々から此方の機微を読み取るんだから。
「じゃあ聞くけど、紅は妬かないワケ?」
「私が?イルカに?」
俺が頷くと、紅は盛大に吹き出して笑い始めた。
「ちょっと、笑うコトないデショ」
「だって可笑しいじゃない。勿論私だって、アスマが他の女とイチャついてたら嫉妬するけど…イルカでしょう?アスマに下心があるっていうなら兎も角」
「可笑しくないよ。下心なんてあったら即座に雷切モンだね」
「ふふ…でしょうね。でも、だからって、イルカにヤキモチだなんて…あはは!」
沈着冷静、才色兼備のくのいちは何処にいったのか。
腹を抱え、涙をこぼして笑う紅に段々と腹が立ってくる。
「もう、笑い過ぎだって。油断してると知らないからね、イルカ先生にアスマ盗られても」
「ちょっともう、ホントにやめてってば」
「なんだ?えらく盛り上がってるじゃねぇか」
「イルカがアスマに盗られちゃうんだって」
「違うって、アスマがイルカ先生に盗られんの。紅は危機感足りてなーいよって話」
「はあ?」
アスマはどっかりと腰を降ろすと、俺と紅を交互に見て豪快に笑い飛ばした。
「イルカ先生は?」
「同僚らしい野郎に捕まって話し込んでたぞ」
アスマは猪口を傾けて一口煽った後、座敷の外を顎で指した。
「しかしお前も大概懲りねーな。俺とイルカがどうにかなるワケねぇだろ」
「でしょう?想像するだけで可笑しくって」
なおも笑いが収まらないらしい紅が、俺の肩をバシバシと叩く
「嫉妬の範囲が広くて大変だなぁオイ」
そう、そうなのだ。
俺の恋は、果てない海原のように嫉妬の範囲が広い。
ただでさえイルカ先生は人当たりが良くて老若男女問わず人気があって。
受付なんかでも密かにアプローチされてたりするのに本人は鈍感なのか全く気が付かないし。
そりゃあ、あんな可愛い笑顔で『お疲れ様です』なんて言われたら、任務で疲れてちょっと人寂しいなーなんて思ってる野郎なんか一発でオチるに決まってる(かくいう俺も御多分に漏れずあの笑顔に落とされてしまったワケだけど)
内勤の中忍、アカデミー教師、三代目からの信頼も篤くって、適齢期の女性陣からしても超優良物件に違いない。
子煩悩そうだし、恋人を大事にしてくれそう。
長い買い物なんかにも嫌がらず付き合ってくれるだろう。
休みの日には二人でキッチンに並んで料理しちゃったりして。
あ、ダメ、想像だけでムカムカしてきた、もう止めとこう。
「アスマぁ、頼むからイルカ先生に触らないでくれる?」
「そりゃ無理な相談だな。アイツ見てるとどうにも構いたくなって仕方がねぇ」
「わかる気がするわ。なんか可愛いのよね、イルカって」
クスクス笑う紅と全く悪びれないアスマは、イルカ先生のあそこが可愛い、ここが可愛いと挙げ連ね始めた。
イルカ先生の可愛いトコなんか、言われなくたって山ほど知ってるっての。
「はあ……疲れる」
「写輪眼のカカシが弱音か?珍しいな」
「だって、俺ばっかり好きみたいで…疲れるんだよ。色々と」
「もう、そういう事はイルカ本人に言いなさいよ」
「言えたら苦労はなーいよ」
焼き鳥の串を口に挟んでぷらぷらさせる。
イルカ先生が居たら、行儀が悪いですよ!と怒られる所だ。
「イルカ先生を好きになるんじゃなかったなぁ…」
この世で一番怖いもの・後編
「オイ、滅多な事口にするもんじゃねぇぞ」
「だってホントにそう思うんだもん。あのひと相手だと調子が狂うんだよ。まるで、俺が俺じゃないみたい」
そう、これまでなら。
我が侭も押し通せて、それが嫌だと言う相手とはすっぱり別れて身軽になって、次の相手を探してた。
まあ、探さなくても向こうから寄ってきていたから、正確には来る者拒まず去るもの追わず、だったワケだけれど。
イルカ先生相手だとそうもいかない。
彼を手離すなんてしたくないし考えられない。
だからこそ彼の機嫌を損ねたり、些細な揉め事すら起こしたくなくて。
アスマと仲良くしないで!なんて子供じみた我が侭は、ぐっと飲み込んで我慢している。
あのひとを厭な気分にさせない事が、俺があのひとを繋ぎ止める事の出来る唯一の手段だと思うから。
「カカシ、」
紅が俺の袖を引いた。
「何?……イルカせんせ?」
座敷の入り口に目をやって、一瞬見えたのはイルカ先生の泣きそうな顔で。
パッと消えたそれに見間違いかと目を瞬かせていたら、紅に脇腹を殴られた。
「追い掛けなさいよバカ!」
「へ…?えっ?何?」
「間違いなく、今の聞かれてたぞバカ」
「今のって…」
「なぁにが『イルカ先生を好きになるんじゃなかった』よ!イルカしか好きになれないくせにこのバカ」
「イルカ泣かせたらただじゃおかねぇっつったろうがこのバカ」
バカバカ言うふたりは、それは愉しそうにニヤニヤ笑っていたのだろう、店を飛び出した俺には確認出来なかったけど。
店を飛び出して、イルカ先生のチャクラを探る。
週末の繁華街は行き交う人々でごった返していて、動揺している所為もあってかなかなか集中出来ず、思わず舌を鳴らした。
仕方なく走りながら姿を探して、街中なのに忍犬達を口寄せしようかとまで思ったその時、橋の袂にうずくまる後ろ姿を見留め、俺は歩調を緩めてゆっくりと近付いた。
上下している肩は、泣いているんだろうか?
俺の不用意な発言で、彼を傷つけた?
「イルカ先生、」
声を掛けるとのろのろと立ち上がったイルカ先生は、俺の方を振り向いて力無く笑う。
「すみません…、俺、ちょっと酔ったみたいで…今日はもう帰ります。アスマさん達には…」
アナタは、そんな時にも笑うの?
「さっきの、聞いてたんでしょ?」
遮るように尋ねた俺の言葉に強張った笑顔は、肯定の意味で間違いないだろう。
「いいんです。いつか、カカシさんに重荷に思われるって、俺、そう思ってましたから。だから、終わりにしましょう」
……何?
イルカ先生の言っている言葉の意味がわからない。
周りの喧騒は消え去って、耳鳴りがする。
頭痛と、せり上がるような胃の痛みと。
空気がまるで水のように重くなって、息苦しい。
見えない何かに首を絞められているようだ。
喉の奥が引き攣って、眩暈がした。
「なに、何言ってんの?」
はくはくと口を動かして辛うじて絞り出した声は、情けなくも震えていた。
「いいんです。カカシさんも、もう無理しないで下さい。こんな関係、最初から何処かおかしかったんです。貴方に好かれて俺ばっかり浮かれて、貴方が俺のこと負担に思っているだなんて、ちっとも気が付かなかった」
「負担なんて、そんなこと、考えた事ない」
ふるふると首を振ったイルカ先生は、俺の言葉をというよりは、俺を拒絶しているように見えた。
「短い間でしたけど、楽しかったです。ありがとうございました」
頭を下げて、踵を返すイルカ先生。
橋の上を通って、だんだんと遠ざかっていく彼の背中がスローモーションのように、やけにゆっくりに見える。
走って追い掛けろ。
腕を引いて、抱き寄せて、違う。誤解なんだと弁解しろ。
傷つけた事を謝って涙を拭って、それから、それから、
そう思うのに、俺の体はピクリとも動いてくれない。
声すら出ない。
こんな事で、彼を失うのか?
イルカ先生が、橋を渡りきる。
終わりだ、終わってしまう、何もかも。
そんな、
「バカ、バーカ。ホントにバカ」
「ちょっと、バカバカ言わないでよ」
「だってバカじゃない。ねぇ、アスマ?」
俺を見ていた紅が、ペシリと額を叩いた。
「バカふたりだ」
笑うアスマは、涙と鼻水まみれのイルカ先生の顔をおしぼりで拭っている。
「すみません…」
「謝るぐらいならカカシへの不満は最初から此処で言え」
「はい…」
しゅんと悄げたイルカ先生は、気まずそうに俺を見て笑った。
結局のところ、
去っていくイルカ先生に向けて、俺は捨て身の戦法に出た。
何かって?
ごめんなさいと叫んで、往来で額を擦りむく程の土下座をした。
ただそれだけ。
イルカ先生は慌ててとって返してきて、頭を上げて下さい。と懇願した。
俺は別れを取り消すまで頭を上げません。と意地でも土下座を止めなかった。
人だかりが出来て、周りの好奇の目やざわめきに耐えられなくなったイルカ先生は、別れを取り消した。
でもって、ふたりして橋の上で大泣きしてたら、アスマと紅が俺達を連れ戻しにきたのだ。
で、今に至る。
まったく、なんて夜だろう。
別れを告げる恋人の言葉に一瞬心臓が止まって、人生初の土下座をして。
挙げ句、人前で大泣き。
三十路男のやる事じゃない。
バカだと言われるのも仕方無いかと、イルカ先生に笑顔を返した。
「明日からすごい噂になるわねぇ」
「上忍が中忍に土下座、しまいにゃイイ歳した大人ふたりが大泣きだぜ。橋の名前が変わるんじゃねぇか」
「あーもう、五月蝿い五月蝿い。帰っていーよ、ふたり共」
「何よ、ちょっとぐらい感謝したらどうなの」
しっしっ、と手を振ると、紅に額を弾かれた。
アスマはイルカ先生の頭を撫で、またな。と笑って腰を上げる。
すみませんでした!とふたりを見送って頭を下げたイルカ先生は、座敷の襖をピシャリと閉めて俺に向き直った。
「人前で土下座なんてバカな真似、二度としないで下さい」
「はい…」
キッと睨まれて、俺は素直に頷く。
それにしても、はたけカカシの土下座はイルカ先生にとってかなりの攻撃力があったらしい。
うん、金輪際人前では絶対にやらない。
いつかまたこのひとを凄く怒らせてしまったら、最終手段として使わせてもらう事にしよう。
「アスマさんにも、ヤキモチ妬かないで下さい」
「それは無理です」
即答すると、呆れた顔をされた。
いや、だって、無理なものは無理だよ?
近寄ってきたイルカ先生は目の前で膝立ちになって、真剣な眼差しで俺の額を見分している。
橋で土下座した時に思いっきり擦りむいたから、真っ赤になってるか皮膚が捲れてるか…。
顔をしかめるイルカ先生は、おしぼりを酒に濡らして額に押し当てた。
消毒薬代わりにしちゃ、ちょっと乱暴過ぎやしませんか。
「あ痛っ。も少し優しく…」
「俺だって我慢してるんですから、貴方も我慢して下さい」
「えっ!?アナタもどこか怪我したの?」
慌ててアンダーを捲ろうとしたら、手を叩き落とされた。
「違います!俺だってヤキモチ、我慢してるんです!」
「へ…?誰に?」
「その……紅さん、とか」
「………」
ふてくされたように唇を尖らせて、スッと視線を逸らしたイルカ先生の顔は真っ赤だった。
「ぶっ!ははは!紅!?紅にヤキモチ!?」
「ちょ、笑わなくてもいいでしょう!?」
「だ、だって、俺と?紅が?どうにかなるとでも思ってんですか?ふはっ、ははは!」
ヤバい、可笑し過ぎる。
だってそんな事、天地がひっくり返ったって有り得やしないじゃないか。
ガイの眉毛が極細になるぐらい有り得ない。
「くっ…紅さんと仲良いし!俺やアスマさんの前だってのに妙にベタベタして…」
「ベタベタって…あ、ちょっと、ホントに止めて、笑い死にする!」
腹を抱える俺を、イルカ先生は殴りつけた。
本気じゃなくて、全然力が入ってない緩いパンチ。
「もう!笑い過ぎですよ!」
「ゴメン、ごめーんね。ごめんなさい」
その手をぎゅっと握って、体を抱き寄せる。
ああなんだ、不安だったのは俺だけじゃなかった。
ヤキモチを妬いて、イライラしていたのも俺だけじゃなかったのだ。
「ね、イルカせんせ、次は隣同士に座りましょうね?」
こくりと頷いたイルカ先生に、一生俺の傍から離れないでね。と囁いたら、今度は本気のパンチが腹に飛んできた。
後日、名前のなかったあの橋が『上忍土下座橋』という何ともいえない名前で呼ばれ始めたとアスマに聞かされて、イルカ先生はあの日の俺みたいに大口を開けて馬鹿笑いをしたのだった。
end
睨む
降って湧いたようなイルカ先生との交際は、波乱もなく平穏そのもの。
任務を終えて報告書片手に受付を訪れると、同僚と談笑していたイルカ先生は、真っ先に俺に気付いてにっこりと微笑んでくれる。
お願いします。と七班の今日一日が詰まった紙切れを渡せば、お疲れ様でした。なんて労いの言葉に極上の笑顔を乗せて。
まあ、そこまでなら付き合う前とそれほど変わりはない。
疲労回復効果抜群のイルカスマイルは、アスマ曰わく『戦場以外ではぼんやりの塊』な俺に、恋心を気付かせてくれた程。
以前と違う所と言えば、報告書の受け渡しの時に、悪戯に彼の指先に触れてみた時。
イルカ先生の頬にさっと走る朱の色と、『こんな所でやめて下さいよ』と言いたげに下がった眉とちょっと怒ったように此方を睨む目が愛しくて。
その顔がまた、何とも言えず可愛くて、ついつい悪戯してしまうのだけど。
最近は悪戯を仕掛ける前に手を引かれてしまう事が多くなっていた。
初めは『愛想がいいひとだな』ぐらいだった彼への印象は、次第に『俺だけにその笑顔を向けてくれたらいいのにな』になった。
朧気だった薄ぼんやりした感情は時間を経る程に段々と強くなっていき、仕舞いには『俺だけに、俺にしか見せない色んな表情を見せて欲しい』なんて欲張りな願いに変わった。
夕餉を共にした三ヶ月前のある日、それをそのまま口にした俺に、イルカ先生は『それって告白ですか?』と目を真ん丸にしていた。
そんな事を言われたイルカ先生も驚いただろうけど、言ってしまった俺自身もかなりビックリしたのだ。
『そうかも知れません』なんて煮え切らない答えに、『それなら俺にもカカシさんの色んな表情を見せて下さい』と切り返したイルカ先生は『よろしくお願いします』とにっこり笑った。
付き合い始めて三ヶ月。
手なんかは想いを伝える前から何度も繋いでいたし(『繋ぐ』というよりは『引っ張る』と言った方が正しいかも知れないけど)
頬や髪に触れたり、抱き締めたり。
その程度のスキンシップはじゃれ合いの延長のようなもので日常茶飯事になっていて、俺はそれだけでも充分幸せだった。
好きなひととのセックスに興味が無いワケじゃない。
きっと、今まで見た事のないような表情を見せてくれるだろう。
それを想像するだけでも腰の辺りはジンとするのだけれど、俺自身同性との経験は片手で数える程しかなく、イルカ先生に至っては皆無だと言うから。
無理強いはしたくないし、セックスしないならしないでも全然構わない。
そう思っていたのに。
「……はあ」
いつも通り就業後にふたり連れ立って食事を終え、珍しく俺の家に泊まりたいと言ったイルカ先生を家に上げて風呂を勧めた。
『ありがとうございました』とサッパリした顔で笑う彼に『ビールでも飲んでて』と寛ぐように促して、俺も風呂へ足を向けた。
タオルでガシガシと頭を拭きながらリビングに戻ってみればイルカ先生の姿はそこにはなくて。
溜息が聞こえた寝室へと首を向けると、イルカ先生は髪を上げたり下ろしたり。
寝間着代わりのスウェットの上を脱いだり着たり。
果てはベッドにうつ伏せて、右に転がったり左に転がったりと、可笑しな行動をかれこれ十五分ぐらい続けている。
俺が見ている事にも全く気付いてないらしい。
「あー、もう!」
時計をチラリと見て、脱ぎ捨てていたスウェットに袖を通すと、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜベッドの縁で頭を抱えてしまった。
何か悩んでるのかも知れない。
俺に言えないような事かな。
イルカ先生が自立したひとりの人間だというのは知っているけれど、もっと俺を頼って欲しいと思うのは恋人として当然だろう。
「…どうかしましたか?」
驚かせないようにそっと声を掛けたけど、イルカ先生は文字通り飛び上がって叫んだ。
「カ、カカシさん!いつから見てたんですか!?」
「十五分ぐらいかな。あの、何か悩み事?アカデミー関係の事だとあまり役に立たないかも知れないけど…愚痴ぐらいなら俺でも聞けますよ」
ベッドに腰掛けると、スプリングがギシリと悲鳴を上げる。
「じゅ…十五分って…」
「イルカ先生全然気が付かないから。何してたの?」
笑って濡れたままの髪を梳くと、イルカ先生はビクリと身を竦ませた。
そういえば最近、俺が触ると固くなる事が多くなった気がする。
今日も受付所での悪戯は仕掛ける前に避けられたし、視線を反らす事も多くなったような…。
…そうは思いたくないけど、まさか。
「……もしかして、俺に触られるの嫌ですか?」
「……」
無言の肯定だろうか、俯いてしまって表情は読めないけど。
「…ごめんなさい。俺、気付かなくて…」
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
俺の中に、別れるなんて選択肢は無い。
今後一切、彼に触らないと約束すれば一緒にいてくれるだろうか?
「あの、イルカせんせ…」
「いやじゃないんです」
「はい?」
「なんで、なんで何もしないんですか?好きなひととセックスしたいって思ってるの、俺だけですか?カカシさんは俺の事、どう思ってるんですか?」
「へ、あ、えっ?」
矢継ぎ早に訊かれて、頭が追いつかない。
「俺ばっかり意識して、俺ばっかり好きみたいじゃないですか!」
真っ赤な顔でキッと睨まれて、急速に下半身に熱が集まる。
「何それ…すごい殺し文句…」
「茶化さないで下さい!したくないならそう言えばいいでしょう!?」
「したい。イルカ先生とセックスしたいですよ」
「嘘ばっか……ッ!?」
百聞は一見に如かず。
手を取ってカタチを成し始めたモノに導くと、イルカ先生は真っ赤な顔をますます真っ赤にした。
「ね?したくなかったら勃ったりしないでしょ?」
「嘘…」
「どうやって嘘ついて勃起させるのよ。なんなら直に触る?」
「……、」
こくんと頷かれて、え。なんて間抜けな声を出した俺に、イルカ先生は顔を歪めた。
「さ、触りたいです。俺はカカシさんに触りたい…」
あ、ヤバい。泣くかな。
慌てて抱き締めると、イルカ先生はグズグズと鼻を鳴らし始めてしまった。
「ごめん。気付かなくてごめんなさい」
「うー……カカシさんのバカヤロー…」
ああもう、罵倒されただけで達してしまいそうだ。
俺はキスしたり抱き締めたり、それこそ指先が触れるだけでも満たされていたけど。
イルカ先生もそうだったとは限らない。
きっと、すごく不安にさせていたんだろう。
「ごめんね。今からイヤって程、沢山するから」
「…沢山はいいです。ちょっとだけで」
「んーん、沢山します。アナタを不安にさせて泣かせたりしないようにするから。いっぱい触らせて?」
強請るように鼻先を擦り寄せると、馬鹿。と笑って唇に噛み付かれた。
「さっき何してたの?」
「……、何がですか…」
あちこち散々弄り倒してぐったりしているイルカ先生の髪を梳きながら尋ねると、『喉が痛いんであんまり喋らせないで下さい』と怒られた。
「ベッドでゴロゴロしてたじゃない。何かとんでもない悩みを抱えてて、奇行に走ったのかと思って心配したんですよ」
「…とんでもない悩み、ってのは当たってますけど」
「ん?」
「どうやったらカカシさんを誘えるかなって」
「えっ!?」
「だって俺、恥ずかしくて『したい』なんて言えないし」
「さっきは言えたじゃない」
「さっきはさっきです。…カカシさんがグッとくるような仕草を練習…というか模索…?してたんですよ。って…何笑ってんですか!」
堪えきれなくて肩を揺らしていたら、枕を投げつけられた。
馬鹿だねぇ、イルカせんせ。
そんな練習なんてしなくても、今みたいに真っ赤な顔で俺を睨んでくれれば充分なのに。
「じゃ、俺もイルカせんせをグッとさせる練習でもしましょうかね」
「……馬鹿ですか。カカシさんはそのままで充分ですよ」
枕を抱えてイルカ先生の横に寝転がると、ペチリと額を叩かれた。
end
休日
カカシは天気の良い休みの日に、日当たりの良い屋根の上で本を読む。
家の中も好きだが屋外はもっと好きだ。
腰を据えるのは何処の屋根でもいい訳ではない。
日の当たり具合は勿論、座り心地も重要。
長く座っていても尻が痛くならないような、板が程良く傷んで柔らかい屋根がいい。
森の中の誰もいない静かな場所も落ち着いて読書に没頭出来る、図書館のように人の気配はしても皆が自分以外の人間に遠慮して行動している密やかな雰囲気も好きだ。
商店街は少し騒がし過ぎる。
魚屋の威勢のいい呼び込みは嫌いではない。
しかし、道端で交わされる奥様方の立ち話は聞くとはなしに耳に飛び込んでくる。
何しろ声が大きい。
まるで年頃の小娘のようにキャッキャと笑い声を上げる彼女達は、飛び石を渡るようにあちらこちらへと話を飛ばして、それでも意志の疎通は出来ているらしいから全く感心然りだ。
時には房事の話なんかも飛び出し、はて何処かで聞いた声だがと思いそっと軒下を覗けば同僚の連れ合いだったりするものだから、これは聞いてはならぬとこっそり移動したりする。
忍に寛容な木ノ葉の里民とて、屋根の上に長時間じっと居座る上忍の存在には多少なり怪訝な顔をする事もある。
カカシの容姿が目立つ所為もあって声を掛けてくる者もいるし、障らぬ神に祟り無しとばかりに見て見ぬ振りをする者もいた。
結局のところ、諸事色々あってもカカシはそれら全てを含めて屋根の上が好きだった。
あまりひとところには長居しない。
したいと思う屋根に巡り合わなかったからだ。
そんなカカシは里のあちらこちらの屋根を渡り歩き、そうして最近、漸くお気に入りと呼べる場所を見つけた。
賑わう商店街を突っ切って、少し道を逸れた所にある小さなアパート。
見た目にも安普請なそのアパートの屋根は、まさにカカシ好みだった。
雨風に剥げた塗料、程良くたわんだ板は座り心地も良く、且つ日当たり良好。
何よりそのアパートは階級の違う同業者の住まいだったので、何気兼ねなく長居が出来る。
無論住民からしたら迷惑千万なのだが、カカシは里民以外の視線は気にも留めない。
今日もカカシはミシミシ軋む板に腰を下ろして愛読書を広げる。
此処は、見晴らしもいい。
見下ろせば眼下に商店街が見通せ、行き交う人々の生気に溢れた表情をつぶさに観察出来る。
視線を少し上に動かせば、里の顔とでもいうべき火影岩が見えた。
恩師の顔岩は、自分の記憶の中の面影に比べると少し無骨だなと見る度に思う。
「カカシさん、昼飯どうします?」
カカシの尻の真下、カラカラと小気味良い音を立てて、アルミサッシが開かれた。
其処から顔を出した中忍教師は、人懐っこい笑顔を浮かべてカカシを見上げている。
「お任せします」
にっこり笑って短く答えたカカシに、合点したとばかりに頷いた男は顔を引っ込めた。
と、再度顔を出して悪戯に笑う。
「読書も程々にして降りてきて下さいね」
はぁいと間延びした返事をして、カカシは擦り切れた愛読書に目を落とした。
気に入りの場所は、カカシの部下の元担任の住処の上だった。
日曜の昼日中、布団を干していたイルカに声を掛けたのはカカシの方から。
ギョッとしたように此方を見上げたイルカは、直後ににんまりと笑んでカカシを部屋へと招き入れた。
『屋根の上が好きなんですか』と問われ『此処のは良い屋根です』と真顔で答えたカカシに、イルカは堪えきれずに吹き出した。
肩を揺らしながら礼を失した詫びを言い、取っ付き難いと思っていた貴方の意外な一面を見て一気に親近感が湧きました。と涙を拭った。
『犬は人に付き猫は家に付くと言いますが、屋根に付く貴方は何なんでしょう』
さも可笑しげにそう続けられて、カカシは大層困惑したのだ。
さて自分は、はっきりひとであると返して良いものか。
犬猫は兎も角、ひとは屋根には付くまい。
出涸らしのような茶を飲み干し、湯呑みをじっと見つめて考え込むカカシにイルカはころころと笑う。
『貴方が何でも構いやしません。此処の屋根がお好きなら飽きるまで通って下さい。踏み抜いて雨漏りを招くような事さえなければ、誰も大して気にしませんから』
寛容なのか大味なのか、余り細事に拘らぬ性質らしいイルカに、カカシは好感を持った。
薄い茶の礼を言い、イルカの部屋を後にしたカカシは心持ち暖かい気分になって自宅に戻ったのだった。
それからカカシはイルカのアパートの屋根を定位置にし、時折招かれ階下に降りては飯を馳走になっている。
無論、他の住民は『写輪眼のカカシ』が恐れ多くて見ぬ振りを決め込んでいるのだが、カカシにもイルカにもそんな事はどうでも良かった。
イルカは長いこと独りで寂しかったし、密かに憧れていた上忍が何故か自分の住む襤褸家の屋根を大層気に入っているようなのだ。
ふらりと現れた野良猫を懐かせるように。
いつか飽きて気紛れに何処かの屋根に移ってしまうのだとしても、その間ぐらいは気易く会話を交わせる仲でいいではないか。
飯の炊き上がる安っぽい電子音に、イルカは炊飯器の蓋をぱかりと開ける。
つやつやした白米をざっくり混ぜ手際良く握ると、塩を振り、軽く炙った海苔を巻いて大皿にころりと転がした。
それを六つばかり作って指先についた米粒を舐め取る。
粗方米粒がなくなった所で手を濯ぎ、徐に冷蔵庫に手を突っ込んだ。
付け合わせは貰い物の沢庵。
冷凍庫から製氷皿を取り出して麦茶が入った丸薬缶の中へ割り入れると、それと握り飯の乗った皿を掴んで屋根の上にいるカカシに声を掛けた。
「昼飯です」
カカシが直ぐに降りて来なかったから、今日はそれ程腹が減っていないのだろうと踏んだのだ。
カカシは手を伸ばして皿と薬缶を受け取り脇に置くと、イルカに手を差し伸べた。
「…あの?」
困惑するイルカに、カカシはにっこり笑う。
「今日もいい天気です。良ければ此方に上がられませんか」
まるで自分の家のように言うカカシにまたしても吹き出しそうになりながら、イルカは彼の手を掴み、越してきて初めて自分の家の屋根へと登った。
end
誰にでも優しいひと
「実は俺、明日から里外に出る任務なんです」
「えっ?」
「個人指名でAランクなので、サポートつけてもいいって言われたんですけど…その、カカシさんにお願いしてもいいですか?」
「俺で良ければ喜んで!」
イルカ先生と、ツーマンセルで任務?
これは是非とも頑張って、いいとこ見せたい!
「厠は何処かねぇ?」
「曲がって直ぐですよ。他にも行きたい方いらっしゃいませんかー?」
儂もワシも。と挙手して、ご老人達は先導するイルカ先生の後ろをカルガモの雛みたいに付いていく。
俺はと言えば、老人達の荷物番。
高ランク任務だっていうからカッコイイとこ見せようと張り切ってついてきたら、なんと『木ノ葉第三老人会・温泉旅行の付き添い』だった。
湯治マニアでご老人達のウケのいいイルカ先生御指名だそうで。
指名料に加え、老人会から破格の報酬が出るからランクはA。
護衛なんて堅苦しいものじゃないし、場所も里から三里ほど離れた小さな温泉宿だったから当然苦もなく着いた。
何処そこの温泉は効能が何とかで~なんて楽しそうなイルカ先生を見て、温泉でムフフ!な事を考えもしたけど。
イルカ先生の事だから『任務中です!』ってお断りされそうだし、何よりご老人方はイルカ先生にべったりだ。
「お客様、お荷物の方お部屋までお運び致しますが」
宿の玄関先でふてくされてイチャパラを読んでいたら、七三分けの馬鹿丁寧な番頭とぽっちゃりした仲居が現れた。
「ハイ、よろしく」
素っ気なく返して、大きく溜息を吐く。
全くなぁ…休暇みたいなもんだと思えばいいけど。
任務とはいえ、言うなれば付き合い始めて『初めての旅行』なのに、引率だなんて。
木ノ葉の老人は揃いも揃って皆元気だし、今から何回も温泉入って夜に宴会して明日も温泉入って…少し先にある天満宮まで御参りに行くとか言って張り切っちゃってさ。
昼までに戻ってきたら山の上にある秘湯にも行くんじゃ、こりゃ楽しみじゃのぅガハハなんて笑ってたけど。
あんなにイルカ先生にべったりじゃ、俺達ふたりの時間なんて全く取れそうにないじゃない。
そりゃふてくされるっての、愛想笑いも出てきませんよ。
「カカシちゃん、ご機嫌斜めじゃのぅ」
「そりゃあね、わかるデショ。ウメさん」
ウメさんは、イルカ先生んちの近くの煙草屋のお婆ちゃんだ。
イルカ先生を本当の孫のように可愛がっていて、彼女がイルカ先生に持たせる果物やなんかの半分は俺の腹の中に収まっている。
当然、俺達が付き合ってる事も知っているワケで。
矍鑠としていて粋で、兎に角色々と寛容なひとだ。
「イルカちゃん、楽しみにしとったぞい。カカシちゃんがそんな顔しとったら、イルカちゃんが悲しむのぅ」
「だってさぁ…イルカ先生ったら、なんであんなに人気があるの。俺ほったらかしなんだもん、つまんなーいよ」
まるで子供みたいに、本音が口をついて出る。
御年九十歳なんてウメさんの前では、俺如き三十路男は鼻水垂らしたそこらの童っぱと変わらない。と笑い飛ばされたからだ。
忍とか写輪眼とか関係なくて、ウメさんの前では俺もイルカ先生もチビっこ同然。
「イルカちゃん、可愛いじゃろ」
「…充分過ぎるほど知ってマス」
かわいいだけじゃなくて、男らしくて、でもって優しい。
誰にでも分け隔てなくするから妬けるのだ。
だって時折、恋人なんて立場の俺すらアカデミーの生徒やご老人達と同じラインにいるのかな。なんて思ってしまう。
贅沢だけど、アナタは他の人とは違うんですよ。とわかるように別格扱いされたい。
「イルカちゃん歌上手いしのぅ」
「え、そうなの?」
「若様のズンドコ節が十八番じゃ。今日も歌ってくれんかのぅ」
「ズンドコ…」
浴衣でズンドコ節を歌うイルカ先生を想像して、ちょっとだけ顔がニヤけた。
アレって演歌の割にアクティブに動くよね、…腰回りが特に。
「カカシちゃん、コレ飲んで元気出しんさい」
ウヒャヒャと下世話な笑いを浮かべたウメさんは、俺の手に『赤マムシ』の瓶を乗せて土産コーナーへと去っていった。
だからさ…コレが使える状況にならないじゃないのって話だよ。
「カカシさん?」
「はいっ!?」
イルカ先生の声にビックリして、手の中の『赤マムシ』をギュッと握り締め隠す。
見つかったら何を言われる事か。
「荷物はもう、部屋に運ばれちゃったんですかね?」
「ああハイ、さっき番頭さんが」
「そうですか…。俺、ちょっとフロント行って来るんで。カカシさんお婆ちゃん達見てて下さい」
「はい。いってらっしゃい」
ひらひらと手を振って、パタパタと駆けて行くイルカ先生を見送った。
鄙びた温泉宿かと思っていたら、通の間ではかなり名の知られた御宿だったらしくて。
ご老人達はもとより、温泉をハシゴしたイルカ先生も大層満足げだった。
湯上がりでお肌つるつるじゃのイルカちゃん。なんてウメさん達に撫で回されて、ウメさん達もつるつるですよー。とニコニコしている。
情けないことに俺はふたつ目ぐらいで湯中りして、大盛り上がりの宴会の最中も座敷の隅で横になっていた。
大丈夫ですか?とイルカ先生が様子を見に来てくれても、甘える間もなく『イルカちゃん大変じゃ~』と呼ぶ声がする。
何も大変じゃない、ただお酌をしてもらいたがってるだけ。
イルカ先生はハイハイどうしましたかー?なんて、さっと俺の傍から離れしまう。
(ああもう、俺具合悪いんですけど!)
不機嫌が最高潮に達した辺りでイルカ先生のズンドコ節が始まり、俺の怒りはシャボン玉のようにパチンと弾けた。
濡れタオルを額に乗せたまま寝転がってニヤニヤ見ていたら、木ノ葉老人会・将棋部の常勝将軍シゲさんが『カカシちゃんが限界じゃ』と大声でイルカ先生を呼んでくれた。
「カカシさん、大丈夫ですか?すみません、此処じゃ休まらないですよね。部屋に行きましょう」
「え、でもウメさん達は?」
「大丈夫です。宴会引けたら仲居さんが布団敷きに来ますから」
疲れたらみんな勝手に寝ちゃいますよ。と付け足して、イルカ先生は俺の腕を掴んで肩に回して起き上がらせる。
座敷を出る前にちらりと振り返ったら、ウメさんとシゲさんがふたり並んで俺に向けて親指を立てていた。
読唇術で読めたウメさんの唇の動きは『グッドラック』
『健闘を祈る』と敬礼したシゲさんは不思議そうに振り向いたイルカ先生に『おやすみ』と笑って、ウメさんの手を引き宴の輪に戻っていった。
グッドラックだの健闘を祈るだの言われたって、どうにもならないものはどうにもならないのだ。
間接照明に照らされた赤絨毯の廊下を通って、イルカ先生はずんずん宴会場から離れていく。
「あの、イルカ先生?部屋はウメさん達と一緒じゃ…」
中庭まで連れ出され、其処で漸く違和感に気付いた俺はイルカ先生を見た。
「その、部屋は…みんなと別なんです。俺とカカシさんが一緒で…」
「え?えっと、つまり?」
「ウメさん達が離れの個室を取ってくれてですね…」
俯き加減で恥ずかしそうに説明してくれたイルカ先生に、一瞬思考が止まる。
頭の中では旧式のレジスターが様々な単語を打鍵して、チーンという小気味良い音とともにドロワーが開いて『据え膳』という言葉を叩き出した。
俄然やる気になった。
昼間の不機嫌も、具合の悪さも何処吹く風だ。
「部屋は何処ですか!」
「カカシさん?」
「俺、具合悪くて今にもぶっ倒れそうです。早く部屋に行きましょう!」
「ちょ、ちょっと…!」
ぐいぐい腕を引っ張って、教えてもらった部屋へと雪崩れ込む。
ゆったりとした和室に布団が並べてあるのを視界に捉えて、口元が緩んだ。
「あの…この部屋、露天の内湯付きらしいです」
「へぇ、一緒に入ります?」
「具合の悪いひとが何言ってるんですか…」
イルカ先生は呆れた声を出したけれど、表情を見る限り満更でもないらしい。
旅館の離れなんて珍しいワケでもないのに、障子や襖をあちこち開けて逸る心を落ち着かせようとしてみる。
備え付けの急須でお茶を入れるイルカ先生に促されて、腰を下ろすと人心地ついた気がした。
「…しません、からね」
「えっ!?」
「当たり前でしょう?一応任務中なんですよ、俺達」
「…ダメ?」
「ダメです」
予想通りというか何というか、毅然とした先生口調でお断りされてしまった。
まあ、残念だけど仕方ない。
ふたりっきりの時間が取れた事の方が嬉しいから、今夜は我慢する事にする。
気を取り直して、明日の予定は。なんて話をしていると、イルカ先生がぽつりと呟いた。
「そういう事は、任務とかでなく、きちんとした旅行でしたいです」
「………」
「ほら、やっぱり気を遣うじゃないですか!今日だってこんな個室取ってもらって申し訳ないっていうか……俺、前からカカシさんと行きたい宿が、」
「予約入れます。帰ったら教えてね」
つらつら喋りながら、どんどん真っ赤になるイルカ先生を見ていられなくて、思わず遮ってしまったけど。
きちんと、考えていてくれたんだなぁと嬉しくなって。
四つん這いになってイルカ先生の横に移動して、ギュッと抱き締めた。
「カカシさん…」
「イルカせんせ…」
唇が重なるまで後数センチ。
ゴロリと俺の浴衣の袂から転がり出たのはウメさんに貰った赤マムシの瓶で。
キリキリと目を吊り上げたイルカ先生に締め出しをくらって、俺は老人達と一晩を共にしたのだった。
end
撫でる楽しみ
え?
頭を撫でる癖…ですか?
いやあ、自分では意識してなかったんですけど。
そう見えるって事はそうなのかも知れませんね。
ほら、子供達の頭って、丁度いい位置にないですか?
そりゃ勿論、叱る時に拳骨落としたりもしますけど。一番わかりやすい褒め方っていうか……ううん、少し違いますかねぇ。
やっぱり、自分がされて嬉しかった記憶があるんですよね。頭撫でられて『よくやった、えらいえらい』って。
あ、アカデミーでは出来の良い方じゃなかったんで、主に両親からでしたけど。
家の手伝いとか、宿題が終わったとか…雨の日に傘持って大門まで父ちゃんを迎えに行ったりした時とかですね。
俺の両親がスキンシップの多い方だったのかも知れないですけど、兎に角些細な事でよく頭を撫でられたんです。
今でこそこんなでっかく育ってますけど、俺、ガキの頃はホント小さかったんですよ。
いやホントに、クラスでも前から数えた方が早かったぐらいで。
両親が亡くなった後も、アスマさんや三代目にぐりぐり撫で回されましたからね。
成長期なのに身長が伸び悩んでるのは、それの所為じゃないかと何回も思いましたもん。
…え?ああ、背が伸び始めたのは中忍に上がってからです。
食べ物とか任務で里外に出るようになったからとか…色々要因はあったと思うんですけど、一番は一人暮らしを始めたからじゃないかなぁなんて。
甘えがね、赦されないっていうか…これで俺も一人前なんだーって、まあ実際は全然でしたけど。
三代目もアスマさんも、何かにつけて俺を気に掛けて下さいましたし。
自分一人の力で生活を始めて、変な意味でなくひと皮剥けたっていうか……いやだから、変な意味じゃないですってば!
あー……まあ、その辺の話はまた追々……ちょっと…だから……もう!あんまりしつこいとカカシさんの話も根掘り葉掘り訊いちゃいますよ!?
…全く…中忍からかって遊ぶの止めて下さい!
…………で、何の話でしたっけ?
……、ああ、頭撫でるのが癖かって話でしたね。
癖…なんですかねぇ?
ああでも、気持ちがいいですよね。
子供の髪って柔らかいですし、そういや俺、動物撫でるのも好きです。
布団売り場とか行ってもですね、つい撫で回しちゃうんですよねぇ。
新しい毛布って、サラサラしてて気持ちいいじゃないですか。
はは、触り過ぎて店員さんに注意された事あります。
そう、そうなんです。
無心というか忘我の境地というか…こう、集中してですね、
…へ? 何ですか?
カカシさんの頭……を撫でたくはないか?
……撫でて欲しい?
だから…からかうの止めて下さいって。
…いや、そりゃ、撫でてみたい…とは思いますよ?
でもだからって…いい大人がですね…あ、ちょっと、カカシさ、
…………
…あっ、見た目と違って柔らかいんですね!
もっとゴワゴワしてるのかと………髪、細いんですねぇ。
…………
………
……
…
え、もう終わりですか?
カカシさん顔真っ赤ですけど……な、撫で過ぎ?
えー…いいじゃないですか、カカシさんが撫でさせたんですから、俺の気が済むまで撫でさせて下さいよ!
わかりました、代わりに俺の頭も撫でていいですから!ねっ?
あ、撫で難いですか?髪紐解いていいですよ。
その代わり、カカシさんも額当て外して下さいね!
「…アイツら何やってんだ?」
「さあ?でも、すごく楽しそうじゃない?アタシも仲間に入れてもらおうかしら」
「止めとけ、馬に蹴られるぞ」
end
プラネタリウム
『アカデミー』は忍者としての基礎知識の他に、仮に忍として大成しなかった場合も備えて、ひととして生きていくのに必要な教科は一通り教える事になっている。
加えて、一見何の役にも立ちそうもない計算式や、漢字の成り立ちひとつが忍術の裏付けになっていると知れば、子供達も俄然やる気が出るというもの。
…だそうで。
子供達の学習意欲を掻き立てる為なら、苦労を厭わない。
俺の恋人はそんなひと。
「それで、今日は何ですか?」
俺がそう訊くと、厚紙を切っていたイルカ先生は手を止めてにっこり笑った。
「プラネタリウムを作るんです」
「えぇ?星なら外で見ればいいじゃない」
俺達が子供の頃は、野営訓練のついでに星の並びやなんかを教えてもらっていた気がする。
「時代が時代ですから、色々ややこしいんですよ」
イルカ先生の言う意味は、俺にはよくわからなかったけど。
俺達の頃とはアカデミーやその他諸々、子供達を取り巻く環境は色々と違う、らしい。
「何か手伝える事、あります?」
土台らしき物に電球や配線を繋いでいるイルカ先生は一生懸命で、ぼんやりしていたらいつまで経っても構ってもらえそうにない。
「ありがとうございます。それじゃあコレ、お願いしますね」
そう言って渡されたのは、厚紙と錐。
「穴、開けていって下さい」
「適当でいいの?」
「いいわけないでしょう。教材ですよ?」
呆れ顔のイルカ先生に、俺は仕方無く厚紙にうっすら印刷された点の通りに錐を刺していく。
ああ、なんて地味で単調な作業。
「そういえばさ」
「はい?」
「イルカ座はあるのに、カカシ座はないんだよね」
「そういえばそうですね。俺、子供の頃親父に教えてもらって大喜びしましたもん」
「いいよねぇ。俺も野営の時に見つけてはニヤニヤしてんの、イルカ先生の星だーって」
「ちょっと、止めて下さいよ。星見てニヤニヤするカカシさん、キモチワルイですよ」
「うん。ヤマトにも言われました。先輩キモチワルイ、だって」
他愛もない話をしながら、唯ひたすらに穴を開けていく。
ホントにねぇ、イルカ座があるならカカシ座もあっていいと思うんだけど。
「終わりました?」
「ハイ。イルカ座もバッチリです」
「じゃあ、もう一枚お願いしますね」
「うへぇ」
割と、イルカ先生は人使いが荒い。
まあこれは、深く付き合いだしてから知った事だけど。
「カカシさん、ちょっと電気消しますよ?」
「はいはい」
パチリ。
真っ暗になった部屋にぼんやり浮かぶのは、俺がさっきまで穴を開けていた厚紙から漏れる、小さな豆電球の光。
イルカ先生の家の、狭い居間の中。
築何十年らしい古いアパートの、くたびれた天井や壁に、人工的な光の粒。
なのに、きちんと星に見えるから不思議だ。
「やっぱり、本物には適わないですよね」
「教材としては充分デショ」
「ですね、イルカ座は…」
「あそこです。…あれ?」
「ふふ、」
小さな菱形に、伸びる尾の星。
……の横に、カカシ?
カタカナで『カカシ』って穴が開けてある。
「ちょっともう…」
俺にもう一枚渡したのはそういう事ですか。
「だってカカシさん、自分の星がないって拗ねてるから」
「だからって、カカシって…そのまんまじゃない」
「わかりやすいでしょう?」
イルカ先生は、したり顔でくつくつ笑っている。
ああもう、やんなっちゃうなぁ。
このひとったら可愛いんだもの。
「こっちは俺んち専用ですね。今カカシさんが作ってくれてる方をアカデミーに持っていきます」
「ん。後できちんと作ります」
「後で?」
「後で。だって今、いいムードでショ?」
厚紙と錐を放り出して、きょとんとしたイルカ先生の頬に口付けたら、
「まあ、そうですね」
なんて畳の上に引き倒されてしまいました。
イルカ先生は、俺の色々な意欲を掻き立てるのには全く苦労しないようで。
アカデミー生より扱い易い、と思われてるのかも。
end