お勉強会・1

平凡だけど考え得る限り真っ当に生きてきて、それなりに恋愛経験はあった。

出逢いアリ別れアリ、当然ながら性交渉の経験もある訳だけれど、今回ばかりはどうにも勝手が違う。

第一に、相手が同性である。

第二に、その相手はありとあらゆる浮き名を流しているような人間で、耳に入った艶聞だけでもモテない自分からしたら憤死しそうなモノばかりだった。

第三、相手はどうか知らないが、自分には同性とそういった経験が、ない。

以上の三点から、今現在恋人といえる間柄になった相手と所謂『そういう雰囲気』にならないのは、自分に問題があるのではないかとイルカは考えた。

イルカの恋人であるカカシは、顔の半分以上を覆っている覆面を持ってしても、隠しきれない美貌の持ち主で。

すらりとした体躯に長い手足、挙げ句木の葉の里の忍の中でも五指に入る実力者なのだ。

色街に行かずとも、引く手数多な男。

そんな彼が何をトチ狂ったか、見た目も実力も平均的な、一介の中忍であるイルカに恋心を抱き、あまつさえ彼から見れば確実に格下であろうイルカに対して照れ混じりの敬語で、しどろもどろになりながらその恋情をぶつけてきたのだから。

イルカ本人としては『冗談も休み休み言え』と、笑い飛ばしたい所だったのだが。

イルカの前に立つカカシはいまだかつて見た事がない程真剣であったし、何よりイルカ自身カカシからの告白に嫌悪の類の感情を持てなかったし。

これはこれで『俺もカカシさんの事が好きなんだろう』と安直に納得して、自分でも予想だにしていなかった『同性との交際』に踏み切ったワケなのだが。

それに対してイルカは後悔していない。

カカシは、垂れ流した艶聞の欠片も見えない程に紳士的で誠実で、優しかった。

何股掛けていた。一晩でヤリ捨てした。泣き縋る女を素気無く捨てた。等々。

自分が女性の立場だったら殴って土下座させて、その頭を踏みつけても気が済まないような話ばかり。

噂話の中のカカシは、実際に目にしている彼とはあまりに違い過ぎて、イルカはどちらが本当のカカシなのか解らずにいる。

例えば並んで歩いていて、ほんの少し指先が触れただけでもカカシは身を強張らせ、イルカがそれに対して謝ると。

『指、触れちゃいましたね。ふふ』

なんて、それはそれは恥ずかしそうに笑うのだ。

ひょっとしたらその手を洗わないんじゃないかと疑ってしまうくらい、カカシはイルカの前ではもじもじしていておとなしくて。

それはまるで、ナルトの前に立ったヒナタのよう。

エリート上忍の意外な一面を垣間見た、それは俺が彼の恋人だから。と最初こそ面映ゆいような気持ちで見守っていたイルカも、最近はいい加減イライラしてきていた。

(幾ら何でも進展が無さ過ぎる!)

世の中スローライフだスローフードだスローセックスだ、ゆっくりいきましょう。が持て囃されているが、こと恋愛に関してはあまりゆっくりし過ぎるのも考え物だとイルカは感じていた。

なぜなら、三十路男と四捨五入で三十路突入の自分、いい歳した大人が二人でいて、キスすらまだなのだから。

別に身体で繋ぎ止めようとか、閨で骨抜きにしてやろうとか、そういう考えはイルカにはない。

考え以前に、イルカ自身自分にそんな技も無ければカカシを満足させられるような身体でもないと思っている。

(大体、俺は男だし)

カカシとの事を考え始めると、決まって最後はそこに行き着くのだ。


自分は男、女性のように柔らかくもなければ華奢でもない。

体格もカカシとそう変わらないし、身体についているモノだってカカシと一緒だ(まだ実際に見たワケではないので、大きさ云々については断定出来ないが)

カカシから思いの丈をぶつけられた時、イルカはしつこい程に念を押したのだ。

『俺は男ですよ?』

イルカがそう聞くたびにカカシは『性別は関係なくて、イルカ先生がいいんです。イルカ先生だからいいの』と真剣な面持ちで返してくるものだから、無碍に断れなくて…。

というのは建て前で、本音はと言えばそれは本当に嬉しかった。

『はたけカカシ』は、イルカが純粋に憧れていた人。

まさか自分の元教え子達の上忍師になり、親しく言葉を交わす間柄になるなんて思いもよらなかった。

雲の上の存在、高嶺の花。

そんなカカシから告白されて、嬉しくなかった訳がない。

ただやはり、不安も拭い去れなかった。

カカシは選ぼうと思えば選り取り見取りな立場なのだ。

(男で、中忍で、何の取り柄もない自分が好きだなんて)

卑下している訳でもなんでもなく、イルカは当たり前にそう思っていた。

カカシには、自分より相応しい人間がいるのではないか。

一度そう口にしたら、カカシが物凄く悲しそうな顔をしたので、イルカはそれ以後その考えは心の奥底に閉じ込めておくことにした。

そうすると今度は『好きだと言うなら、何故手を出してこないのか?』という疑問が湧いたのだ。

(好きなら、触れたいと思うのは当然の事なんじゃないか?)

カカシの長い指や、綺麗な星色の髪に触れたい。

肌の温度を感じたい。

これまで付き合ってきた相手とは、どちらともなく自然にそうなってきたのに。

カカシは全くそんな素振りを見せない。

むしろ、イルカに触れる事を恐れているように思える。

イルカにはそれが寂しくて、悲しかった。

と同時に、怒りも感じていた。

(カカシさんは、恋愛ごっこがしたいだけなんじゃないか?)

そんな事を考える自分が嫌で、彼に触れたいと願う己が俗物のようで。

自己嫌悪に陥りそうになっていたイルカが相談相手に選んだのは、兄同然に慕うアスマだった。












「…というワケなんです。アスマさんはどう思いますか?」

アスマの口から、ぽろりと煙草が落ちた。

天気の良い休日。

昼日中、猿飛の家を訪ねてきた弟分は真剣そのもので、真っ黒な目で、揺らぐ事なくアスマをじっと見つめている。

将棋の真っ最中だなんて事を忘れてしまうぐらい、イルカの相談は唐突で突飛だった。

「…なぁ、イルカ」

「なんですか?」

「お前の相談事ならいつでも喜んで乗るがよ…」

「はい」

「そういう内容に限っては、ガキのいねぇ所でするもんだろ」

「……!!」

「あー…俺、茶ァ淹れてきます」

煙草の火がアスマの服を焦がす前に拾い上げた指の持ち主は、かつての恩師と今の上司を交互に見つめ、めんどくさそうに腰を上げて部屋の奥へと消えていった。

お勉強会・2

イルカは、なりふり構っていられなかったのだ。

アスマと将棋を差す元教え子が目に入らなかった程に。








アカデミー卒業後、同期の生徒の中で一足先に中忍になったシカマルは、この一年でぐんと背も伸びて顔付きも男らしくなった。

幾つかの難しい任務もこなして、徐々に名を馳せつつある。

アスマを持ってして『火影になれる器』と言わしめる奈良家の一人息子は、かつての恩師の切羽詰まった様子に、彼の話を余計な横槍を入れる事なく黙って聞いていた。

…が、アスマがシカマルをちらりと見て、据わり悪そうな表情を作ったので気を利かせて席を離れたのである。

通い慣れた台所に向かうと薬缶を火にかけ、戸棚から客用の湯呑みと急須、茶葉を手際良く用意して並べる。

(イルカ先生も、なんていうか…人間だよな)

教師、恩師、という括りでしか見ていなかったイルカが、急にひとりの人間として見えた。

恋や愛なんて、言葉では知っていても、シカマルには正直まだわからない。

自分がチョウジやいの、アスマや両親を好きだと思う気持ちと、イルカがカカシを好きだと思う気持ちに、どれぐらいの差と違いがあるのかわからなかった。

(…ま、アスマがなんとかしてくれるだろ)












シカマルが茶を淹れて縁側に戻った時、二人の姿はそこになく、さっきまで開いたままだった障子がぴたりと閉じていた。

中にあるふたつの気配に、シカマルはそっと声を掛ける。

「アスマ?」

「入ってもいいぞ」

言われて障子を引くと、胡座をかいたアスマと正座してうなだれるイルカが部屋の真ん中に座っているのが見えた。

「その、シカマル、さっきの話は…」

「あー…誰にも言わないスよ。先生のプライベートなんで」

「すまん…」

イルカは泣きそうな顔でシカマルに頭を下げる。

(イルカ先生って、アカデミーにいた頃もこんな感じだったか?)

不意に、昔読んだ本の中の言葉が浮かんだ。

『ある一人の人間のそばにいると、他の人間の存在など全く問題でなくなることがある。それが恋というものである。』

生徒の前では教師という仮面を被っていたイルカも、私生活ではひとりの人間。

極力表情を出さないよう二人の前に湯呑みを置き、シカマルは腰を上げた。

「俺は外で暇つぶしてますんで」

自分が居ては都合の悪い事もあるだろう。

シカマルは障子を閉めると、対局途中だった将棋盤を一瞥して縁側に横になった。

目を閉じたシカマルの耳には『でも…』や『だから…』といった言葉が障子越しに聞こえてくる。

(大人はめんどくせーな)

『わからない事があったらすぐ聞くように!』

アカデミーに通っていた頃、飽きる程聞いたイルカの言葉。

わからなければ、聞けばいい。

大人になると、そんな簡単な事も出来なくなるのだろうか。

日当たりの良い縁側でごろりと寝返りを打ったシカマルは、庭先に立つ人影に気付き、慌てて体を起こす。

「よ。アスマいる?」

日差しにキラキラと輝く銀髪の持ち主は、片手を上げてスタスタと歩み寄ってきた。

(めんどくせー相談の、めんどくせー元凶が来やがった)


シカマルは、生来めんどくさがりという訳ではない。

どちらかと言えば面倒見の良い方だし、何より機転が利いて空気も読める。

カカシの姿を見留めたシカマルは、直感的にイルカが今此処に居るという事は伝えない方がいい気がした。

「アスマは…今来客中で」

「ふぅん、珍しいね」

誰?とは聞かなかったカカシに胸を撫で下ろして、シカマルは横に座った上忍に茶を勧める。

「多分、結構時間掛かると思いますけど」

「そうなの?じゃあ出直そうかな」

イタダキマス。と湯呑みを受け取ったカカシは、口布を下げて茶を啜った。

(そういや、ナルト達がカカシ先生の素顔がどうとか言ってたな)

伝説の三忍のひとりと修業に出た旧友を思い出していると、カカシはゴチソウサマデシタ。と湯呑みを置いて、腰を上げようとする。

「帰るんスか?」

「うーん…お客さん来てるなら此処で待ってると急かしてるみたいで悪いし」

「…カカシ先生」

「ん?」

「相談があるんスけど」

歯切れの悪いシカマルに、カカシは珍しい事もあるものだと目を丸くした。

同時に、アスマの秘蔵っ子が自分に持ち掛けてきた相談にも興味が湧く。

「俺でいーの?アスマに聞けないような事?」

「そういうワケでもないんスけど…アスマよりカカシ先生向きっていうか」

「ん、いーよ」

浮かし掛けた腰を下ろして、カカシはシカマルに向き直る。

どーぞ。とにこやかな笑顔を向けられて、シカマルは頬を掻いた。

「えっと…俺のダチから持ち掛けられた相談なんスけど、」

「うん」

「相手から好きだっつわれて付き合ってんだけど、相手が何もして来ないらしいんス」

「はは、…え?コレ俺向きの相談?」

「カカシ先生ならわかるんじゃないスか?」

「んー、そうねぇ」

猫背を丸めていたカカシは、仰ぐように空を見上げて視線を彷徨わせた。

障子の後ろでは、押し殺した気配がふたつ。

(アスマさん、シカマルの奴なにを…)

(しっ、黙って聞いてろって)

シカマルがそよそよと風に揺れる銀髪をぼんやり眺めていると、カカシは不意に口を開いた。

「シカマルは、意識して誰かに触りたいって思った事ない?」

「意識して…ッスか?」

カカシに問われて、シカマルは考えてみる。

第一に浮かんだのはチョウジの柔らかそうな頬、次にアスマの髭、それからチョウジと一緒に行く駄菓子屋に居着いている野良猫が無防備に寝ている時の腹だった。

色恋とは一切関係無い答えに、カカシは片方だけ見える眉尻を下げた。

「聞き方が悪かったかな?異性で考えてみてよ」

そう言われて一瞬浮かんだのは砂の風使いで、シカマルは振り払うように頭を振る。

「あー…すんません。無理ッス」

「初恋もまだかぁ」

「よくわかんないス」

言葉では知っていても、理解は出来ない。

想像と体験は違うものだ。

「じゃあね…」

カカシは小さく呟いて、シカマルの手を握った。

お勉強会・3

「え、ちょ、なんスか?」

たじろぐシカマルに、カカシはニコニコ笑う。

「今どんな気分?」

「…正直に言っていいんスか?」

「うん」

「……気持ち悪い、スね」

正直な気持ちだった。

顔見知りとはいえ、男相手にいきなり手を握られ撫でさすられては良い気分ではない。

障子の後ろからは殺気がふたつ、一瞬ぶわりと膨れ上がって直ぐに収まった。

(あの野郎シカマルに何を…)

(シカマルには普通に触るんだ…)

退こうとしたシカマルの手は離さないまま、カカシが片手で印を結ぶ。

「だよねぇ?…それなら、こうすると…」

ぼふん、と煙が上がってカカシが変化の術を使ったのが分かり、シカマルは目を凝らす。

ややあって目の前に現れた人物に、シカマルは両目を見開いた。

「ちょっと…カカシ先生!」

「どう?」

シカマルの手を両手で包み込み、にっこりと笑うその顔は誰あろう先程の質問でちらりとシカマルの脳裏を掠めた砂の国の風使いで。

四つに結われたキラキラ眩しい金髪と、少し勝ち気な笑顔。

大きな鉄扇を軽々と振り回すその手や指先は、触れた事こそないけれど恐らくシカマルが想像していた彼女の質感そのものの細さと柔らかさで。

カカシが変化したものだとわかっていても、シカマルの動揺は隠せない。

「今はどんな気分?」

変化なのだから当然なのだけど、そう尋ねる声までが同じで、あたかも本人が目の前に居る錯覚に陥って、シカマルはクラクラと眩暈を感じた。

カッカと熱いのは、紛れもなく自分の頬だろう。

「マ、マジで勘弁して下さい!ホント無理ッス!」

慌てて手を引き抜いて、赤くなった頬を隠すように両手で覆う。

柄にもなく汗が吹き出して、全力疾走した時のように鼓動が五月蝿い。

「わかりやすい例えデショ?」

元の姿に戻ったカカシは、ニヤニヤ笑ってシカマルを見ている。

「なんなんスかもう…」

「そういうコトだよ。意識して誰かに触ったり触られたりすると、ドキドキするデショ?シカマルの相談相手の恋人も、ドキドキして触れないんだよ。きっと」

「…でも、相手は好きなら触って欲しいって思ってるワケじゃないスか」

それを不満に思っていて、改善されなければいずれは上手くいかなくなるんじゃないだろうか。

シカマルがそう訊くと、カカシは眉尻を下げた。

「それは…心の準備が出来るまで待ってもらうしかないよね。だってすごく好きで、やっと両想いになれたんだよ?大事にしたいし、焦って変なコトして嫌われたくないデショ?それに…」

ぬるくなった茶を啜っていたシカマルは、(途中から自分の話になってる)と思いながら聞いていたカカシの次の言葉に、思い切り茶を吹き出した。

「一回触っちゃったら我慢出来なくなって、壊しちゃうかも知れない」


噎せるシカマルの背をさすって、カカシはのんびりと言い放つ。

「要はねぇ、イルカ先生は俺にとって『掌中の珠』なんですよ」

障子の後ろに聞こえるように、ゆっくりはっきり大きく紡がれたその言葉に、スパン!と障子を開け放ったイルカは顔を真っ赤にしてカカシを睨みつけた。

「そんな風に言われても、全然嬉しくありません!」

「だって、大事にしたいんだもの。ずっと傍に居て欲しいから、イルカ先生の嫌がる事はしたくないんですよ。俺は」

「お、俺、嫌だなんて一言も言ってないです!」

アスマは呆れ顔で二人を見ている。

シカマルは咳き込みながら(早く帰ってくれねーかなめんどくせー)と思っていた。

傍観者達の思いなど何処吹く風で、ヒートアップするイルカと、変わらずのらりくらりとかわすカカシのやり取りは、およそ十分以上続いた。

呆れを通り越したアスマとシカマルは、崩れた将棋盤を元に戻して、言い争う二人の間で中断された勝負のやり直しにかかる事にする。

面倒臭がりの師弟に、最早バカップルの喧嘩を止めようだとか仲裁に入ってやろうだなんて気はさらさらなかった。

最初はあったけれど、あまりの馬鹿馬鹿しさに消し飛んでしまったらしい。

「カカシさんはいつもそうやって余裕ぶって…俺との事は、本気じゃないんですよね、結局!」

「ちょっと、いつ誰がそんなコト言ったの?俺はアナタの事を大事にしたいって言ってるじゃない」

「俺はそんな言葉、一度も聞いてません。アンタが態度で示さないから…お、俺ばっかりそういう事考えてるみたいで嫌なんです!遊びならやめて下さい!」

「アナタねぇ…遊びで男に告白出来ると思います?大体、遊びの相手なら即座に手を出してそこでハイ終わり、ですよ」

「俺なんか手を出す価値もないって事ですか!?」

「だから、誰もそんなコト言ってないデショって」

段々と雲行きが怪しくなってくる会話に、シカマルは(どうして目は瞑れるのに耳は蓋が出来ないんだろう)と人体の問題点を考察し始めた。

そんな部下を見て、アスマは煙草を揉み消すと咳払いをして腰を上げ、二人を交互に見やる。

「あー…ちょっといいかお前ら」

「なんですか!」

頭に血の上っているイルカとは対照的に、カカシは平素と変わらない涼しい顔でアスマを見ている。

「とりあえず帰ってくれ。男同士の痴話喧嘩を素面で聞く趣味はねぇし、シカマルの精神衛生上よろしくねぇ」

その言葉に絶句して口をパクパクさせたイルカと、『だよねぇ』なんて他人事のように呟くカカシの首根っこを掴んで、アスマは二人を庭の端へと放り投げた。

腐っても忍、受け身を取って着地した二人は、まだ何か言いたげにアスマ達の方を見ていたが、しっしっ、と手で払われて渋々猿飛の家を後にする。

「全く面倒くせぇ奴らだなぁ…」

「同感ッス…俺ァあんなめんどくせー大人にゃなりたくねー」

『面倒臭い大人』

その括りの中に自分も入っていたらどうしたものか、そんな事を考えながら、アスマは腰を下ろして新しい煙草に火をつけた。

お勉強会・4

ずんずんと大股で歩くイルカの後ろを、カカシはのそのそと歩いていた。

アスマの家を出てから会話らしい会話はなく、如何にも『怒ってます!』といったイルカの背中に、声を掛けるのも何となく躊躇われて。

ぼんやりと前を行くイルカの背を見ながら、カカシは考える。

(何がいけないんだろうねぇ?)

好いた相手を特別大事にしたいと思ったのは今回が初めてで、これまでの自分をかえりみると確かにろくでもない事ばかりやってきた。

カカシの過去を知る人間なら『何を今更』と言ってもおかしくないが、カカシ本人からしてみればイルカに対して誠実に接してきたつもりだ。

にも関わらず、それが不満だと言われてしまえば立つ瀬がない。

シカマルに思わず漏らした言葉も、紛れもないカカシの本音で。

箍が外れてしまうと力加減の出来ない己の性分を理解した上で言った事だったが、イルカからしてみればそれさえ納得出来ないらしい。

口布の下で小さくこぼしたカカシの溜息は、イルカの耳には届く筈もなく。

ひたすら無言で歩き続ける事数分。

カカシは辺りの景色を見渡して、思わずイルカに声を掛けた。

「…イルカ先生?」

「なんですか」

返事はあったものの振り返らずに返されたその声は何処か不貞腐れているように聞こえて、カカシはゴクリと唾を飲み込む。

付き合ってから戯れるような言い合いなら何度かした事があるが、ここまで険悪な雰囲気になった事はない。

本気で怒っているらしいイルカを見るのも初めてで、内心ビクビクしていたものの、イルカの足が向かっている先を見て、カカシはその場に立ち尽くした。

カカシの視線の先にはイルカの背中と、見慣れたイルカのアパートではなく、カカシの住む上忍アパート。

「なんですか、カカシさん」

「イルカ先生…俺んちに行くの?」

階段を登るイルカの意図がわからず、カカシは尋ねながら少し段を飛ばしてイルカに追いつく。

イルカは答えず、扉の前でカカシに向けて掌を差し出した。

「鍵、下さい」

気圧されて渡した鍵を差し込んでノブを引くと、イルカはサンダルを脱ぎ、まるで自分の家のように上がり込んだ。

カカシは扉を後ろ手に閉めると、動こうとしないイルカの背に向けて小さく名前を呼ぶ。

「イルカせんせい」

「俺は、貴方が好きです」

絞り出すように出された声は震えていて、カカシは思わず息を飲む。

「好きだから、触って欲しい。そう思うのは…貴方にとって迷惑でしかないんですか?」

「迷惑なんて、そんな事」

イルカの言葉に、カカシは身震いした。

これまで言い寄ってきた女達、色街の華、その誰に言われた誘いの台詞より、イルカの一言はカカシの腰をジンと甘く痺れさせる。

僅かに震える肩を抱き寄せて、肌に触れたい。

「カ、カカシさん、それなら…」

バサリと落とされたベストと額当てに、カカシは目を見張る。


(ああ、イルカ先生、アナタってひとは)

カカシは土足のまま間を詰めて、イルカを後ろから抱き締めた。

ガチガチに固まったイルカの筋肉と、緊張からかほんのりと香る汗の匂い。

それだけでどうしようもなくなって、カカシは腕に力を込めた。

「い…痛いです。カカシさん」

「…ごめんなさい。こうなっちゃうから…アナタに触れるのが怖かったの。加減出来ない」

首筋に鼻を埋めてぎゅうぎゅうと身体を寄せるカカシに、イルカが小さく悲鳴を上げる。

回された腕に手を当てると、カカシの腕は硬直したように硬くなっていた。

「カカシさん、カカシさん!ちょっと…」

「イルカ先生…」

「腕を…少し緩めて下さい。……その…俺も、貴方を抱き締めたい、です」

喘ぐように発したイルカの言葉に、呪縛が解けたかのようにカカシの腕から力が抜ける。

するりと身を翻したイルカは、カカシに向き合って視線を合わせるとにっこり微笑んだ。

「カカシさんは、仕方のないひとですね」

そっと回されたイルカの腕が、カカシの背を優しく包む。

カカシは恐る恐るイルカに身を寄せて、イルカの服の裾を握った。

「…あの、カカシさんも腕を回して下さい」

「でも……」

「大丈夫、俺は壊れません。例え痛い思いをしても、貴方を嫌いになったり離れたりしようとは思いません。俺は、貴方が好きなんだから」

「…俺も、アナタが好きです」

ゆっくりと回されたカカシの手は、イルカの形を確かめるようにそっと動いた。

くすぐったさに身を捩ったイルカは、子供をあやすようにカカシの背を優しく叩く。

「何処をどう触っても男でしょう?」

「うん、俺も男だよ」

「ホントに俺でいいんですか?」

「いいも何も…抱き合っただけでこんなになっちゃってるんですけど…」

ぐ、と腰を押し付けられて、その感触にイルカは頬を染めた。

「その…俺も同じなんで…」

ベッドへ。そう次ごうとしたイルカの言葉は、噛み付くように覆い被さってきたカカシの唇の中へ吸い込まれていった。











平凡だけど考え得る限り真っ当に生きてきて、それなりに恋愛経験はあった。

出逢いアリ別れアリ、当然ながら性交渉の経験もある訳だけれど、今回ばかりはどうにも勝手が違う。

第一に、相手が同性である。

それは最早、問題じゃない。

(同性だなんて関係ない。彼が俺にそう言った通り、俺もそう思うから)

第二に、その相手はありとあらゆる浮き名を流しているような人間で、耳に入った艶聞だけでもモテない自分からしたら憤死しそうなモノばかりだった。

(実際の彼は噂に聞くのとは全く違って、驚くほど臆病で優しいひとだった)

第三、相手はどうか知らないが、自分には同性とそういった経験が、ない。

(これも既に過去形、そういった経験が、なかった。だ)

以上三点、進みそうで進まなかったカカシとイルカの関係は、突如猛スピードでカタチを変えた。

逃げて、追い掛けて。

捕まえたのは、捕まったのは、一体どちらかわからない。

それでも二人一緒なら。

手に手を取って、何処までも走っていけるに違いないから。

横で眠るカカシの頬に口付けて、イルカは毛布に潜り込んで彼の手を握り、ゆっくりと瞼を閉じた。




end

形を無くす

 ○月×日 晴れ
七班の本日の任務終了。報告書を出すついでに、イルカ先生を夕飯に誘ってみた。

「すみません。今日は同僚と先約があって…」

「そうですか…。それじゃあ、また今度」

困り顔のイルカ先生も非常に可愛い。
誘いは断られたけど眼福だ。
ばっちり瞼に焼き付けたし、今日はこれをツマミに家で一杯やるとしよう。




○月△日 曇り
本日の七班の任務終了。
報告書を出すついでに、イルカ先生を夕飯に誘ってみた。

「すみません、今日はこの後アカデミーの当直でして…」

「そうですか…。当直、頑張って下さいね。それじゃあまた、次の機会に」

また断られてしまった。
イルカ先生の予定の下調べは万全だったのに、どうやら直前で誰かと変わってあげたらしい。

まったくイルカ先生は人がいいんだから。

まあ、そんなところも彼の魅力のひとつだと思う。
仕方ないから帰り道で捕まえたライドウに一杯奢ってもらう事にした。




○月○日 曇天
本日の七班の任務終了。
報告書のついでに、イルカ先生を夕飯に誘ってみた。

「すみません。今日は町内会の寄り集まりがありまして…」

「そうですか…。ご近所付き合いは大事ですよね。それじゃあ、また…」

何てことだ。
さすがに町内会の事までは調べていなかった。

さすがに三連敗はキツい。
こうなったら徹底的にイルカ先生のスケジュールを調べるしかないだろう。




○月□日 雨
本日の任務終了。
報告書のついでに……

「すみません。ついさっき三代目に用事を頼まれてまして…」

「そうですか…。火影命令じゃあ仕方ないですよね。…それじゃまた」

あのクソジジィ、覚えてやがれ。




○月☆日 雷雨
任務終了。
イルカ先生を夕飯に……

「すみません。今日は…」

「あ、理由はいいです。ダメ…なんですよね?」

「はい…カカシさん、ホントにすみません!」

「や、いーのいーの。気にしないで下さい。それじゃあ、また」











只今の戦歴、全戦全敗。

もはやイルカ先生と目が合っただけで、誘う前から返事がどうか分かるぐらいにまでなってしまった。

『すみません』

そう謝る彼の目は真摯で本当に申し訳なさそうで、俺の誘いを迷惑だと思っていない事だけは辛うじてわかる。

だからこそ、俺の誘うタイミングの悪さと、自身の不甲斐なさにイライラする。

『もっと強引に誘えばいいだろ』

戦友兼悪友にそれとなく相談した所、いとも簡単に言ってのけてくれた。

それが出来れば苦労はない。

俺は無理矢理に誘って彼に嫌な思いをさせたくないのだ。

上忍の利権だとかを振りかざして彼に近付きたいワケじゃない。

ただ、ほんの少し仲良くなりたいだけなのに、悉く邪魔が入るのは一体どういう事だろう?

初めて会った時、彼に何かを感じて『これは運命だ』と思ったけれど、もしかしたら俺の思い違いだったのかも知れない。

その証拠に、俺がイルカ先生を誘うばっかりで、彼から誘いを掛けられた事は過去一度としてなかったじゃないか。

「はあ……」

気付いてしまえば、どんどん嫌な方向に思考が傾く。

…明日、

明日また誘って、もしダメだったら。

その時はきっぱりすっぱり、諦めるとしよう。

〇月×日 晴れ
アカデミーでの授業後、受付当番。

報告書を出しに来たカカシさんに夕飯に誘われたけど、生憎同僚との先約があったので断った。

カカシさんは残念そうに笑って帰っていった。
本当はカカシさんと夕飯を食べに行きたかったけど…ドタキャンすると同僚達が後で五月蝿いので仕方なく我慢した。




〇月△日 曇り
アカデミーでの授業後、受付当番。

今日もカカシさんに誘われた。ちくしょう、カカシさんに誘われるってわかってたら、当直なんか代わってやらなかったのに!

カカシさんに『頑張って』って言われたから、張り切って当直する事にする。

晩飯は満腹亭の出前でも取る事にしよう。




〇月〇日 曇天
アカデミー後、受付当番。

二度も断ったから、まさかまた誘ってもらえるとは思わなかった。
けれど、今日は残念ながら町内会の寄り集まりがある。

泣く泣く断った。カカシさんはニッコリ笑って『近所付き合いも大事ですよね』だって。

俺も確かにそう思う。
集会なんて言っても、後半は爺ちゃん婆ちゃんの世話役に回るんだけど…。
今日はいつも以上にみんなに優しくしようと思う。




〇月□日 雨
受付当番。

カカシさんに誘われたら今日こそはと思っていたのに、三代目におつかいを頼まれた。

お駄賃もらったけど…全然嬉しくねぇ。

三代目、俺の年、忘れてんじゃないのか?




〇月☆日 雷雨
受付。
カカシさんに誘われたけど、今日もやっぱりどうしても外せない用事があった。

ナルトが任務で貯めた金で、俺にラーメンを奢ってくれるらしい。

カカシさんも誘おうと思ったけれど『理由はいいから。またね』と言って、カカシさんはあっさり帰ってしまった。








さすがに、呆れてしまっただろうか?

一介の中忍如きが、里の誉とまでいわれた上忍の誘いを何度も蹴るだなんて。

あまりいい気分ではないだろうし、もしかしたら俺が調子に乗っていると思われてるかも知れない。

『お前から誘えば?』

ここ最近シフトの都合でずっと一緒だった同僚に何となく相談したら、事も無げに言われてしまった。

それが出来れば苦労はしねぇっての!

大体、俺とカカシさんの接点なんか七班の子供達ぐらいしかないんだぞ?

きっとカカシさんは、子供達の扱い方や性格、アカデミーではどんなだったか、なんて話を聞きたいに違いない。

そんな真面目で勤勉な彼に比べて、俺はどうだ?

子供達の様子は気になるけれど、それ以上にカカシさんと個人的に仲良くなりたい。だなんて。

不相応な下心で、カカシさんを食事に誘うなんてできっこない。

きっと見透かされるし、今以上に呆れられる。

彼と初めて会った時、何か運命的なモノを感じたのは俺の思い違いだったんだ。

だって、いつもタイミング悪く何かしら用事が入って、彼の誘いを受ける事すら出来ないんだから。

ああ、もう、

明日、

明日もしカカシさんに誘われて、それでダメだったら。

俺はこの想いに蓋をしよう。

キレイさっぱり、すっぱりと、カカシさんの事は諦めるんだ。

〇月〆日 快晴
 諜報部での仕事を終え、受付に赴く

最近よく、シフトの都合でイルカと一緒になる事が多い

やっぱり今日も一緒だった

俺の横に座ったイルカは何処か気合いに満ち満ちていて、そのくせ五分おきぐらいに時計を眺めては溜息を落としていた

「…イルカ?具合でも悪いのか?」

「違うよ。実は……」

イルカとは、そう短い付き合いでもない

互いが中忍に成り立ての頃から知っているから、イルカが一見わかり易そうな人間に見えて、実は見た目程短絡的ではない事も知っている

ここ最近、はたけ上忍とのやり取りを真横で聞いていた身としては、少しなりとも手助けをしてやりたいと思っているのだが…

ボソボソと耳打ちされた言葉には、目を剥いた

まさか、コイツがはたけ上忍に懸想していたとは!

「今日は大丈夫なんだろ?予定、何も入ってないよな?」

イルカは、約束は守る男だ

優先順位などは付けない

約束は、受けた順に

融通が悪いと言われる事もあるけれど、それがコイツのいい所だと俺は思っている

俺の質問に神妙な面持ちで頷いたイルカは、再び時計を見上げた

「カカシさんが来るまでに何事もなければ…」

「何か言われても、予定が入ってるって言っちまえよ」

「…今日、カカシさんに誘われる保証もないのにか?」

「だから、お前から誘えっての」

「それは…無理」

またきっと、中忍から誘うなんて。とかワケのわからない理屈がイルカの中に通っているのだろう

はたけ上忍は階級だとかそんな事、全く気にしないひとだと俺は思うのだが

「そういえば今日、三代目は?」

「御大名に呼ばれて、里にいないよ。今日は当直も大丈夫。町内会の集まりもないし、ナルトもシカマル達と遊びに出かけた」

「万全だな」

指折り確認するイルカによしよし。と頷いていると、イルカのトレードマークでもある頭頂部の尻尾が、ピン!と逆立った

「…カカシさんだ」

「普通にしてろよ。お前の様子が変だと、はたけ上忍気ィ使って誘って来ないかも知れねーぞ?」

「…わかってる」

いいや、わかってない

ガチガチに顔が強張ってる

初めてAランク任務言い渡された!と騒いでいた時のイルカを思い出した

コイツ、緊張し過ぎて出発前にポカやったっけ

オイ、その顔止めろって、こっちまで緊張してくるだろうが

「これ、お願いしますね」

「はい。確認します」

よし、表面上は普段通り……ん?はたけ上忍も、顔が強張ってないか?

「…………」

「…はい、不備はありません。お疲れ様でした」

来る、来るぞ、イルカ

最高の笑顔で受けろよ、頼むから

俺は落ち込むお前なんか見たくねーし、自棄酒に付き合って慰めるのも御免だからな

「あの…イルカ先生、」

「はいっ!」

「アカデミーの、うみのイルカ先生はいらっしゃいますかー?」

「は、はいっ!?」

「私、木ノ葉病院の者ですけど」

「…はい?」

「あなたが担任されてる、木ノ葉丸くん。先程うちに搬送されまして…」

「木ノ葉丸が!?」

「木から落ちたらしくて、軽い脳震盪だけなんですけどね。三代目が御不在でしょう?検査入院の手続きをお願いしたいんですよ。三代目から、何かあったらあなたに連絡するようにって言われてまして」

「あ、はあ、三代目から…」

「今から病院に来られます?お仕事、抜けられるかしら?」

「だ、大丈夫です」

大丈夫じゃねーだろ!

そりゃ、三代目のお孫様だし脳震盪は心配だけど、でも!

「あー…イルカ先生、大変そうですね。それじゃ俺はこれで…」

アンタもだ、はたけ上忍!
なに簡単に引き下がってんだよ!

泣きそうな顔してるけど、イルカだって今にも泣き出しそうなんだぞ

ああ、ちくしょう、こうなったら

「またね、イルカ先生」

「あっ!カ、カカシさ…」

「はたけ上忍ッ!」

「…ん?」

余計なお世話だって、わかってんだよ

人の恋路に首突っ込んで協力なんて、俺の柄じゃないのは百も承知だ!

でも、これぐらいいいだろ?

「また、とか、今度、とか曖昧な約束じゃなくて、何日の何時って、今ここで決めてやって下さい!イルカは馬鹿だし石頭だし融通が利かないから、確約がないとダメな奴なんです!アンタ、イルカの事好きなんだろ!?」

最後のは、いらなかったか

目を真ん丸にしたイルカとはたけ上忍、まさに闖入者の名に相応しい木ノ葉病院の看護士、それから、受付所中の諸々の視線が、脂汗ダクダクの俺の顔に突き刺さる

うおぉ、怖ぇ!

誰か何か言えよ!

「…うん、好き」

「………は?」

「俺はイルカ先生が好きです」

「それじゃ…」

「誰か知らないけど、ありがとね。そうだよね、『また今度』じゃなくて、何日の何時って決めれば良かったんだ」

そっか、そっかぁ。と笑ったはたけ上忍は、ボーっと突っ立ったままのイルカの腕を引いた

ついでに、病院に行くんでしょ?と、同じく突っ立ったままの看護士を促して

『誰か知らないけど』ってのは少しだけ引っ掛かったけど、病院への道すがら、ふたりの今後の予定でも立てるつもりなんだろう

俺はホントに柄でもない事をしてしまって、今晩は徹底的に自己嫌悪に陥りそうだ

…でもまあ、いいか

振り向いて笑ったイルカの顔が、何より輝いていたから

とりあえず今は、イルカが抜けた穴を必死で埋めようと思う












end
形無し
1:本来の形を損なうこと。跡形のないこと。また、そのさま。
2:面目を失うこと。さんざんなありさまとなること。また、そのさま。台無し。


うさぎの心

 「カカシ、ちょっといい?」

夕日紅の『ちょっと』はちょっとじゃない事を、俺は厭という程知っている。

「いいよ」

男女の痴態繰り広げられる愛読書から目を離さずに俺が頷くと、紅は乱暴に椅子を引いて俺の前に座った。

その顔は何処か不機嫌でふてくされていて、冷静沈着だとか才色兼備だとか、一度でいいからオネガイしたいだとか、中忍下忍問わず年頃の男達から褒め称やされる優秀なくのいちの姿はそこにはない。

いつもの事だ。

アスマと喧嘩したか何かだろう。

「ちょっと聞いてよ、あの人ったらね…」

案の定、アスマに対する愚痴や不満を零し始めた紅に、俺は口布の下でゆっくりと口角を吊り上げる。

それは決して、俺が紅に懸想してるとかそういうのではなくて。

誰かの、例えば目の前に座る女性と古くからの戦友、その二人が年甲斐もなくゆっくりと気持ちを通わせ合って交際をして。

あまつさえ将来を誓い合おうかという程に仲を深めている。

けれど時にはこうして、相手への不平不満が口を突いて出る事もあるのだ。

聞かされる側としては『ああ、そうなの。大変だねぇ』なんて程度の事。

それがまあ、本人達からしたらその日一日をその事に囚われて平静でいられない。

例えば仕事に支障をきたす、下手をすれば精神にまで支障をきたす程に(当然、アスマも紅も、そこまで未熟な人間ではないけれど)

俺は人に対しての興味は薄い方だと自覚しているが、他人の痴情の縺れや愛憎云々なんかは、有り体に言ってしまえば見ていて『面白い』

それと同時に、そんな事態には未だ陥っていない自分自身の現状の有り難さを実感出来る。

早い話、他人の愚痴を聞いて、その上で自分の幸せな立場を再確認出来るという、多少の常識を持ち合わせた人間からしたら『性格に難あり』と思われ兼ねない優越感に浸っているのだ。

そんな俺だから、紅の愚痴を聞きながらも彼女に見えない口布の下でニヤニヤとした笑いが止まらないのも無理はないだろう。

誰に言われなくたって、自分の性格の悪さなら自負している。

「…でね、カカシ。どうしたらいいと思う?」

女がそう聞く時は、決まってどうしたいかが既に決まってるのだ。

下手にあれこれ助言するより、まず彼女はどうするつもりなのかを聞くに限る。

その上で、『俺もそう思うよ、いいんじゃない?』と言えば、大抵の女性は自分の意見が後押しされたのだと納得するし。

俺は決して、彼女達を軽視している訳ではない。

特に木の葉の女は自立心や向上心の高い人間が多く、その大多数が気の強い者ばかりだから。

不要な波風を立てた所で俺が得る物はないし、かといって特別何かを得ようと思っている訳でもないので、あくまで公平に、中立の立場をとっているのが一番楽なのだ。

それと、紅の愚痴を聞くのは嫌いじゃない、むしろ好きだったりする。

「…すっきりした?」

「お陰様でね」

心の膿を吐き出して晴れ晴れとした笑顔を浮かべた紅は、テーブルに肘をついて頭を預けた。

「愚痴りたい時に限ってアンコは里に居ないし。本人に言ってやろうと思っても任務だ、付き合いだって逃げられるのよね」

「ま、仕方なーいよ。それでも、あの髭が好きなんデショ?」

「…まあ、ね」

そう、コレ。

散々何処がいたらないの気に食わないだの愚痴っておいて、最終的に『好きか』と聞けば『そうなの』と素直に認める。

これはきっと、異性であり紅の恋愛対象からは除外されている俺にだからこそ素直に認めるのであって。

アンコやその他のくのいち相手なら、『早いとこ次の男見つけてやるわよ』なんて、思ってもいない虚勢を張るに決まっている。

誰かが、誰かを『好き』だと聞ける。

その瞬間を、たまらなく幸せに感じるのだ。

俺の大事なあの人も、誰かに俺の事を愚痴ったりするのだろうか。

その上で『それでも好きなんでしょう』と問われれば、照れ臭そうに笑って『はい』と答えるんだろうかなんて。

そう考えるだけで顔が緩みっぱなしになってしまう。

「カカシ、あんたのトコはどうなの?」

「んー?幸せだよ?なんでお前達がそんなに喧嘩するのかわかんないぐらい」

「あらそう、ご馳走様。聞いた私が馬鹿だったわ」

呆れたように笑って、それでも満足そうな紅は『ここは私が持つわ』と俺の伝票を持って席を立った。



end

深い森の迷路

 俺は酒に弱い方ではないと思う。

酒豪と謳われるアスマや紅ほど強くはない。

かといってすぐに酔い潰れてしまうほど弱くもない。

ほどほどに、自分のペースは崩さずにゆっくりと飲む。

だから二日酔いなんかした事ないし、悪酔いなんてもってのほかだった。












「お前達、本気で忍辞めたいって思った事、ない?」

今思えば馬鹿な質問をしたと思う。

上忍師仲間の飲みの席、俺がぽつりとこぼした質問に、連中は目を瞬かせて俺を見た。

「無い!」

開口一番答えたのはガイで、やっぱりね。と思った俺はガイを無視する事にする。

「どうしたの、カカシ」

熱でもあるの?と手を伸ばしてきた紅の手を避けて、アスマを見ると、ぽかんと口を開けていたアスマは苦笑いをこぼした。

「悪酔いしたんじゃねぇか?」

「…そうかも。馬鹿な事聞いた。忘れてよ」

ひらひらと手を振って煤けた居酒屋の壁に頭を預けると、アスマと紅は肩をすくめ、ガイは『悩みなら俺が聞いてやるぞー!』と喚き散らした。

(酔った、かなぁ)

やっぱり薬飲んだ後にアルコールはまずかったか。

それとも里に長く居るようになって、色々と耐性が落ちてんのかなぁ。

悩みを話せとしつこく詰め寄るガイを無視して目を瞑る。

店の中は喧騒に溢れていて、あちこちで笑い声や歓声が上がっていた。

食器のぶつかる音。

椅子を引く音。

扉が開く音。

客を迎え入れる店員の威勢のいい声。

カチリと聞き慣れた音がして、アスマがふう、と煙を吐くのがわかる。

新しい煙草に火を付けたんだろう。

「まあ、忍やってる奴なら一度は考えるよな。俺ァ何で忍やってんだろって」

「俺はないぞ!」

「ガイ、五月蝿い。…アスマもあるの?辞めたいって思った事」

「そりゃあなァ…」

「紅は?」

「あるわよ。両手じゃ足りないぐらい、ね」

「そっか…」

良かった、俺だけじゃなかったのか。

二人のその言葉になんだか安心してしまった俺は、ゆっくりと瞼を閉じた。











「……ん」

瞼を開けるとやけに静かで暗くて。

一瞬何処に居るのかわからなかった。

俺の頭にふわりと触れる指の感触に、思わず身が強張る。

「カカシさん喉乾いてませんか?水飲みます?」

穏やかな声音に、暗闇に慣れる前にもう一度目を閉じた。

此処は安心していい場所。

(イルカ先生んち、か…)

「…カカシさん?」

「…アスマ?」

俺の短い問い掛けだけでわかったのか、イルカ先生は髪を梳く手は止めずに小さく笑った。

「はい。アスマさんが連絡くれて…」

(あの髭熊、余計な事しやがって)

小さく舌打ちすると、イルカ先生は困った声になる。

「すみません」

「んーん。イルカ先生が謝るのはおかしいデショ。謝るのは俺、ごめんなさい。連れて帰ってくれてありがとね」

仰向けから横向になって目を開けると、イルカ先生に抱き締められるように布団に横になっていた。

「珍しいですね、カカシさんが酔っ払うなんて」

「んー…酒飲む前に薬飲んだからかな」

イルカ先生の腰に腕を回して抱き寄せる。

胸に額を押し付けるとトクトクと心臓の音がして、急に泣きそうになった。

(まだ酒が抜けてないみたい)

「…俺には聞かないんですか?」

「忍、辞めたいと思った事があるかって?」

「はい」

イルカ先生はどっちなんだろう?

ガイみたいに迷い無く『ない』と答えるのか、アスマや紅みたいに『ある』と答えるのか。

「…聞いてもいいの?」

「カカシさんが聞きたいなら」

「んー……」

聞きたい気がする、でも、聞くのが怖い気もする。

俺が悩んでいると、イルカ先生はギュッと俺の頭を抱え込んだ。

「カカシさんは、本当に忍を辞めたいと思った事がありますか?」

「………あるよ」

木ノ葉に、忍の家に生まれなければ、俺に忍としての資質がなければ。

父さんの死を見ずに済んだ。

オビトの、リンの、ミナト先生の死を見ずに済んだかも知れない。

暗部に身を置いて、目や耳を塞ぎたくなるような任務で体を血に濡らす事もなかったかも知れない。

俺が殺めた赤ん坊は成人して、俺が斬り捨てた老人は天寿を全うしていたかも知れない。

それらを『忍だから』と全て飲み込んで、こんな風に苦しくなる事もなかったかも知れないのに。

鼻の奥がツンとして、泣きそうになりながらもたどたどしく思いを吐き出した俺の背中を、イルカ先生はあやすように優しく叩いた。

「ね、カカシさん。俺も昔、貴方と同じ事を沢山考えました」


 木ノ葉に生まれなければ。

両親が忍でなければ。

あの夜に全てを失う事はなかったかも知れないのに。

「イルカ先生…」

「俺も、貴方程じゃないけれど人を殺しています。任務だったから赦されるなんて思った事は、一度もありません」

意外だった。

イルカ先生が、誰かを手にかけた事があるなんて、ただの一度も考えた事なかったのだ。

「意外ですか?俺だって忍です。自分の身を守る為、仲間を守る為、里の為…自分が納得のいく理由をつけて、赦されようとしてきたんです」

「…赦された?」

「いいえ。きっと、赦しは一生得られないと思います。何より俺自身がそれを赦せないから」

「俺が…俺がアナタを赦すよ。だから、」

「カカシさん…ありがとう、ございます」

そう言ったイルカ先生の声は涙が滲んで震えていた。

「俺も、貴方を赦します。だから、忍である貴方に誇りを持って欲しい」

「…うん」

「それに、もし俺達が忍でなかったら、」

「ん?」

「こんな風に抱き合える事、なかったと思うんですけど」

普段の声で、少しだけ照れくさそうに言ったイルカ先生に顔を上げると、俺の額に彼の唇が落ちてきた。

「イルカ先生…」

「これだけで忍やってて良かったって思う俺は、やっぱり一生、赦されないと思うんですよ」

俺は体を移動させて、泣き笑いするイルカ先生を抱き締めた。

「そんなの、俺だって同罪ですよ」

忍でなければ、俺達は出逢えなかった。

でも、もし違った人生を歩んでいたとしても、

俺は必ずアナタと出逢っていたと思うんだけど。


これ以上イルカ先生を泣かせたくはなかったから、俺達はただただ黙って、互いの温もりに微睡む事にした。





end