We are getting along. Thank you!

前略、天国の父ちゃん母ちゃん元気ですか?

俺は大きな病気や怪我もなく、いつも通り元気です。

今日は父ちゃんと母ちゃんに報告したい事があって手紙を書きました。

それは、ナルトの事です。

ナルトがアカデミーを卒業して、無事下忍になる事が出来ました。

最近は任務で忙しいみたいで、ナルト本人と話す機会が減って少し寂しい気もしますが、ナルト達の上忍師の方(カカシさんっていうひとです)が、報告書を出しに来る時に色々教えて下さるので安心しています。

カカシさんは、上忍なのに階級を気にせず俺と話してくれる、少し変わったひとです

『コピー忍者のカカシ』と言ったら、父ちゃんも母ちゃんもすぐわかるでしょうか?

ビンゴブックにも載るような凄いひとです。

そんなカカシさんに何度か食事に誘われて、俺は図々しくもご一緒させてもらいました。

ものすごく楽しかったけど、ある日、帰り道で急にカカシさんが抱きついてきたので、俺は彼を殴って逃げてしまいました。

翌日謝りに来たカカシさんは、俺の事を『好き』だと言いました。

俺もカカシさんも男です。

俺は普通に女性と付き合って、普通に結婚がしたいと断りました。

だって俺は、父ちゃんと母ちゃんみたいな夫婦になって、家庭を作るのが夢だから

だから、貴方の気持ちには応えられません。と、はっきり断ったのに…。

カカシさんはそれから変わってしまいました。

ぶっちゃけストーカーです。

俺の行く先々に現れて、俺に『付き合って下さい』と詰め寄ります。

最初は上忍だしナルト達の上司だからと遠慮していた俺も、彼のあまりのしつこさに嫌気がさして、最近では罵詈雑言を厭わなくなってきています。

それでもカカシさんは俺を諦めてはくれません。

『無視されるより全然いいです』なんて有り得ないぐらいのポジティブシンキングです。

俺に好きなひとや彼女がいれば、彼も諦めがつくかも…とも思いましたが、彼は腐っても上忍。

尚且つ常軌を逸しているので、俺が誰かの名前を口にすれば、そのひとに迷惑を掛けてしまうかも知れません。

俺は自分の保身の為に誰かを犠牲にするような人間にはなりたくないので、嵐が過ぎ去るのをじっと待とうと思います。

忍とは耐え忍んでこそ、ですよね。

それに、俺はどうしても彼に冷たくする事ができないみたいなのです。

話し掛けられたら無視できないし、俺んちに上がり込んで好き勝手にくつろいでいる彼を追い出す事ができないのです。

俺の家には徐々に彼の私物が増え、ついには彼の歯ブラシまで並ぶようになりました。

天国の父ちゃん母ちゃん、どうか、俺が彼に絆されないよう見守っていて下さい。

俺は、そう遠くないいつか、俺と彼の歯ブラシがくっついていても気にしなくなりそうで怖いです。











「ねーイルカせんせー?」

「なんですかカカシさん。今、手が放せないんですけど」

「この手紙の続きは?」

「あっ!ちょっと…!何勝手に読んでるんですか!」

「いいじゃないですか。これが『カカシの恋心迷惑編』なら、『イルカの恋心発芽編』と『ふたりの恋心成就編』もあるんデショー?」

「そんなモンないです!変なタイトルつけないで下さい!」

「それにしてもアレですねぇ。ナルトの話なんか最初の何行かだけじゃない。途中からずーっと俺の話、んふふ」

「もう!返して下さい!」

「ヤです。続き見せてくれるまで返しません」

「ないですったら!」

「いいですよー。勝手に探しちゃうから」

「ちょっとカカシさん!?」

「今更なにを照れてるんですか。歯ブラシどころか『あんな所』までくっついちゃった仲なのに」

「それとこれとは話が別です!」












前略、天国の父ちゃん母ちゃん元気ですか?

俺は相変わらず元気です。

今日は報告したい事があって、手紙を書きました。

それは………




end

Something touched my heart.

自分が既に習得している事を、言葉に変えてひとに教える事は一見簡単そうに見えて、実はとても難しい。

俺にとって忍の技やなんかは、例えば呼吸のように、生きていて当たり前にしている事を『此処をこうしてこうするんですよ』と教えるようなもので。

ひとの殺し方、それに使う武器の手入れ、気の持ち方。

そういうのは、習うものでなく慣れるものでしょう。

だから、暗部を引退した俺に上忍師の話が来た時、それはそれは渋ったのだ。

俺はミナト先生のような立派な先生にはなれない。

誰かに何かを教えるなんて向いていない。

ただひとりの忍として、里を動かす歯車のひとつとして任務に従事し、いずれ生を終える。

それ以上も、それ以下も望んでいなかった












ナルトはミナト先生の子供だ。

人柱力云々を差し引いても、ミナト先生とクシナさんの血を引いている時点でまず、忍としての大成は約束されたようなもの。

問題は本人のやる気とそれに伴う実力をどう身につけられるか、そしてそれを、周りの人間が引き出してやれるかどうかだと思っていた

実は、暗部を抜けてから少しの間ナルトの様子をこっそり窺っていた。

アカデミーで基礎を習っても、変化の術さえまともに出来ないナルト。

(ああ、それじゃダメだよ)

チャクラは身体エネルギー以上に精神力がモノをいう。

ひとに疎まれ蔑まれて、そんな環境でナルトの精神が健やかに育つなんて到底無理な話じゃないか。

三代目ももう少し配慮してあげないと。

(ほら、また泣いてる)

夕暮れのアカデミー、その運動場の隅で、ナルトは膝を抱えて泣いていた。

今すぐ傍に行って慰めてやりたい。

けれど、ナルトは俺の事を知らない。

彼は知らない人間に心を開くような、無垢な目はしていなかった

まるで手負いの獣だ。

昔の俺も、あんな目をしていたんじゃないか?

ミナト先生に出会う前は。

「ナルト」

木の上で気配を消して、泣きじゃくるナルトをぼんやり見ていた俺の耳に、彼の名前を呼ぶ優しい声が聞こえた。

ナルトの傍に、誰かいる。

「……」

「一楽閉まるぞ。今日行く約束してただろ?忘れたのか?」

「忘れてないってばよ…」

「腹減ってないのか?」

「…減ってる。ペコペコだってばよ」

「それなら行こう。ほら!」

そのひとは、ナルトの手を掴むとグイッと引っ張り上げた

(あのひとは誰?)

あんな風にナルトに触るひとを、俺は知らない。

「なんだぁ?お前顔ぐっちゃぐちゃ、汚ぇなあ!」

彼は笑って、自分の服の袖でナルトの顔を拭う。

乱暴に、それでも優しく。

「いてっ!ひでーってばよイルカせんせー!」

(イルカ、先生)

「我慢しろ。そんな顔してラーメン食っても、旨くないだろ?」

「むー…わかってるってばよ!なあなあ、もちろんイルカ先生のオゴリだろ?」

「よし、一楽まで競争な。俺が勝ったらお前のオゴリだぞ?お前が勝ったら大盛りにしてやるよ」

「ニシシ、イルカ先生給料日前だろー?負けてもオレ、知らないってばよ!」

「オイオイ、お前が勝てたらの話だぞ?」

「へへん、負けないってばよ!」

よーいドン!と走り出した彼の後ろを、ナルトが『ズルい!』と叫んで追い掛ける

ぴょんと地面を蹴って『イルカ先生』の背中に飛び付いたナルトは、もう泣いていなかった。

降りろ。ズルすんな。と暫くナルトとじゃれていた『イルカ先生』は、不意にピタリと足を止めて、俺のいる木の方を振り向くと軽く会釈をした。

俺は慌てて後ろを振り向く。

馬鹿な考えだが、俺ではなく俺の後ろにいる誰かに挨拶したのだと思ったのだ。

そんなワケはないのに。

俺は完全に気配を消していたし、俺の周りに誰かがいれば直ぐにわかる。

ナルトも同じように俺のいる木を見上げたが、不思議そうに首を傾げているだけだった。

「イルカ先生?誰にあいさつしたんだ?」

「秘密」

「なんだよ、イルカ先生のケチ!」

愉しげに笑う二人の姿が見えなくなってから、俺の心臓は急にドキドキして止まらなくなった

何だろう、上手く言葉に出来ないけれど。

暖かいような、泣きたくなるような不思議な気分。

(俺は、こんな感情知らない)

木の上で、さっき見た一部始終を反芻してみた。

ナルトの手を引いた『イルカ先生』

ナルトの顔を拭ってやって、駆け出して。

(俺に、挨拶した?)

治まるどころか、心臓が破裂しそうに痛い。

夕暮れの涼しい風が吹いてきたというのに、まるで熱が出た時のように頬が熱い。

風邪でも引いたんだろうか?なんて、有り得もしない事を考えながら。

動悸が治まるまで木の上で、とっぷりと日が暮れるまで座っていた俺は、戸惑いながらも火影の屋敷に向かって上忍師の話を引き受けたのだった。





end

罰ゲーム

五代目火影を筆頭に、慌ただしかった木ノ葉も漸く落ち着きを取り戻し始めた年の瀬の事。

日頃の憂さを晴らすのと労いを兼ねて、温泉街の一角で忍だらけの忘年会が催されていた。

貸し切られた大広間には木ノ葉の忍達がひしめき合っていて、そこかしこで歓声や奇声が上がっている。

未成年が大半を占める下忍達や一部の中忍は、亥の刻が回る頃には退席を余儀無くされ、会場に残っているのは大人達ばかり。

派手好きで寛大な五代目の意向もあって、場内は無礼講という名の乱痴気騒ぎが繰り広げられていた。

少々の器物破損はご愛嬌。

柱が折れようが鴨居が外れようが、木ノ葉には木遁使いがいるからいいじゃないかと言わんばかりに皆お構いなしで、破れた襖に寄りかかったヤマトはげんなりとした表情で横に座るカカシに酒を注いだ。

「アレ、全部僕が直すんですよね…」

「後でお手当出るんでショ。ま、頑張んなさいよ」

へらりと笑ったカカシは何処か上機嫌で、ヤマトは黒目がちな眼でその視線の先を追った。

カカシの視線の先には、上忍連中に囲まれてあわあわと落ち着きのないイルカの姿がある。

「絡まれてますね」

「ん。絡まれてるね」

「助けないんですか?」

「助けないよ?」

ヤマトは『珍しいな』と思う。

イルカはカカシのお気に入りで、少なからず恋情を込めた独占欲を抱いているように見えたのに。

普段のカカシならすぐさま助け舟を出して、あの場からイルカを救い出しているだろう。

「もしかして先輩、楽しんでます?」

「うん。困ってる顔のイルカ先生も可愛いよね」

特別偏った嗜虐趣味がある訳でもないだろうが、カカシはイルカの困った表情を肴に酒を楽しんでいるようだった。

「イルカさんも可哀相に…」

「テンゾウ、何か言った?」

いいえ、何も。と答えたヤマトは、空になったビール瓶を纏めて脇に寄せると腰を上げる。

「先輩はお茶、いりません?」

「まだ残ってるしいいや。何か適当に摘めそうなの持ってきてよ」

グラスを揺らしたカカシを後に、ヤマトは座敷の端に寄せられた長机へと近寄った。

背後で一際大きな歓声が上がり、バリバリと何かが壊れる音にヤマトの眉間に深い皺が刻まれる。

(木遁でも直せる物と直せない物があるんですけど)

片手に自分のお茶、片手にカカシに頼まれたツマミの乗った皿を持ったヤマトが振り向くと、ぶつかりそうな位置にイルカが立っていて、驚いたヤマトは体を仰け反らせた

「イルカさん?」

「ヤマトさん、失礼します!」

やけに堅い表情のイルカは意を決した風に一礼すると、両手の塞がったヤマトの頬を掴んで顔を寄せる。

「え、ちょ、…んっ!?」

ヤマトの唇に押し付けられたのは、イルカの唇。

驚いて見開いたままのヤマトの目に映ったのは硬く閉じられたイルカの両目と、間近で見ると意外に長い睫毛がふるふると揺れている様だった。

ヤマトの手に持った皿から、盛った唐揚げや何かがボトボトと落ちて畳の上を転がる。

わあっと囃し立てるような歓声や拍手、口笛なんかが聞こえてきて、漸くヤマトは何かの罰ゲームなんだろうと納得した。

「ヤ、ヤマトさん、あのっ…すみませんでした!」

柔らかかったなぁなんてぼんやりしていると、唇を離したイルカがペコペコと頭を下げていた。

「や、全然大丈夫ですよ?」

「大丈夫じゃないよね。全ッ然大丈夫じゃない」

バチバチと雷の爆ぜる音と冷ややかな声に視線を動かすと、イルカの背後にカカシが立っていた。

「イルカ先生?」

「は、はい?」

「なんで俺じゃなくてヤマトなの?」

カカシに気圧されたイルカは、じりじりと後退る。

「ば、罰ゲームで…指定が上忍の方で…」

「だから、なんで俺じゃなくてヤマトなの?」

追い詰められたイルカは、背中にぶつかったヤマトを涙目で見上げた。

「ヤマトさ、」

「すみませんイルカさん。僕にカカシ先輩は止められないです」

人身御供だと言わんばかりにイルカの背を押してカカシに差し出したヤマトは、直後に風のような速さで部屋を後にした二人に向かって静かに合掌した。

(僕も後でチクチク言われるんだろうなぁ)

忘年会で年忘れ

ただでさえイルカの事に関しては記憶力の良いカカシには通用しない言葉だろう。

ヤマトは温くなった茶の代わりに一升瓶を手にして、盛り上がり続ける忍達の輪の中へと滑り込んでいった。




end

甘い甘いご褒美

松が取れて、日常に戻りつつあったある日の深夜。

遠慮がちな、それでいてはっきりと聞こえるノックの音に、イルカは布団の中でぱかりと目を開けた。

(こんな時間に…誰だ?)

カカシなら解錠はお手のもの、いつも勝手に上がり込んでいるのだから違う筈。

里に関する緊急事態なら、あんな静かなノックでなくてもう少し大きいものだろう。

ナルトは余程の事がない限り、こんな夜中に訪ねてくるような事はしない。

他に夜更けに自分の家を訪ねて来るような人間も思いつかず、イルカは体を起こして玄関に向かった。

居間の座椅子に引っ掛けておいた半纏を肩にかけ、手櫛で雑に髪を整える。

恐る恐る開いた扉の隙間に見知った顔を確認して、イルカは扉を開けた

「…ヤマトさん?」

「こんばんは、イルカさん」

どうしたんですか。と尋ねる前に、ヤマトの肩に担がれた人物を見て血の気が引く。

「カカシさん!?どうしたんですか!?」

ヤマトの物らしいヘッドギアを着けたカカシは、常より白い肌を青白くしてうんうん唸っている。

ヤマトを部屋へ上がるように促し、イルカはカカシのサンダルと脚絆を脱がせながら彼を仰ぎ見た。

見たところ大きな怪我はないようで、ホッと胸を撫で下ろす。

ムニャムニャと言葉にならない事を言っているカカシは酷く酔っているらしい。

酒気を帯びた寝息に、イルカの眉間に皺が寄った。

「夜分にすみません、先輩がどうしてもイルカさんの家に行くんだって言ってきかなくて…」

「はあ…」

子供のような癇癪を起こしたであろうカカシに呆れながらも、そのままにしておく訳にいかないイルカは居間をざっと片付けて寝床の用意する。

ヤマトがカカシのベストを脱がして布団に転がすと、やはりムニャムニャ言いながらカカシは布団に潜り込んだ。

「ちょっとカカシさん、それはヤマトさんのでしょう」

ヘッドギアをつけたままのカカシの肩を揺さぶるが、カカシはもぞもぞと布団を巻き付けて引っ込んでしまう。

「もう!」

「や、明日返してもらうんでいいですよ」

ヤマトは慣れっこだと言わんばかりに苦笑いを漏らした

「ヤマトさんも泊まっていかれます?狭いとこですけど布団出しますよ」

「ああ、大丈夫です。僕は先輩ほど酔ってないんで、酔い覚ましながら帰ります」

「にしても…カカシさんが酔うなんて、一体どんな酒飲んでるんですか。暗部の人って」

初めてカカシが酔い潰れた姿を見たイルカは、恐らく市場には出回っていないであろう酒の事を考えてぽつりと呟く。

毒物やアルコールの耐性が一定基準値を越えないと、暗部として認められないという話を以前カカシから聞いていたのだ。

「普通の店で出したら、一発で営業停止になるレベルですかね」

さらりと返したヤマトは、興味があるなら今度飲んでみます?なんて恐ろしい事を笑顔で言った。

「…遠慮しときます」

「はは、賢明です。あ、イルカさんすみません、水を一杯いただけますか?」

「すみません、気付かなくて。普通の水しかないですけど」

「水道水で充分です。喉乾いちゃって」

イルカは台所の電気をつけて、カゴにひっくり返しておいたグラスを持ち上げる

ふと思い立って、後ろを振り向いた。

「ヤマトさん、水よりお茶の方、が、」

言葉が途切れたのは、気配もなく真後ろにヤマトが立っていたからで。

ぶつかりそうになって、イルカの手の中のグラスが滑り落ちる。

「おっと、」

床に着く前にグラスを受け止めたヤマトは、流し台の上にグラスを置いてにっこり微笑んだ。

「あの……?」

訝しげに此方を見るイルカの髪に、ヤマトが手を伸ばす

「初めて見ましたけど…イルカさんって髪下ろしてると随分雰囲気違いますね」

「はあ…」

にこりと笑うヤマトに、お互い様だろう。とイルカは思う

ヘッドギアを外したヤマトは少し短い前髪と大きな目が相俟って、普段より幼く見えた。

そのくせイルカの髪を梳く指先は何やら艶めいていて。

あ。とイルカが思った時には遅かった。

自分の口に押し付けられたのがヤマトの唇だと理解する前に、ぬるりと口内に滑り込んできたのは熱い舌。

それに翻弄されながら、イルカは他人事のように(ヤマトさんも相当酔ってるなぁ)と頭の隅でぼんやり考える。

散々堪能した後唇を離したヤマトは、無反応なイルカに眉尻を下げた。

「ちょっと傷つきますね」

「…罰ゲームですか?」

イルカの頭を占めていたのは、年明け前の忘年会の事だった。

あの時の意趣返しか、はたまた今日の飲み会で振られた罰ゲームなのだろうと。

「罰ゲームは先輩を送る事です。これはさしずめ…ご褒美、ですかね」

「これの何処が、」

抗議の言葉を口にしかけたイルカを遮るように、再び唇を掠め取られて。

先のとは違う触れるだけの口付けの後、ヤマトはもう一度イルカの髪を梳いて微笑んだ。

「この次は、もっとゆっくり」

「…次なんかありませんよ」

イルカが言い切る前に、ヤマトの姿は掻き消えていた




end

メールは苦手・前編

飯時は大盛況の社員食堂の隅にある二人掛けの席は、いつも空いている。

大きな一枚硝子の向こうには中庭があり、階下を行き交う人々を眺めながら食事が出来て、日当たりも良い。

食後の読書含め、休憩には最適なのだ。

にも関わらず何故いつも空いているかというと、場所がトイレの前の席で、尚且つ俺がいつも陣取っているからに違いない。

営業課、同僚のアスマ曰わく『お前は怖ェ』らしい。

俺から言わせたら、外回りの癖にデカい図体で髭面のアスマの方が百倍怖いと思うけど。

兎にも角にも社員食堂の隅っこは俺、畑カカシの特等席であり優先席だったのだ

彼が来るまでは。











「ここ、いいですか?」

読んでいた本から顔を上げると、見たことのない男が立っていた(流石に社員全員の顔を覚えているワケではないけど、目立つ人間なら別部署の奴でも大抵わかる)

「ああ…どうぞ」

俺専用だと言わんばかりにテーブルに広げていたノートパソコンや書類をざっくり退けて、相席を求めてきた男に対面の席を譲る

すみません。と呟いて定食のトレイを置いた男は椅子を引き腰を下ろした。

顔の真ん中を走る傷と、尻尾のように結わえられた黒髪。

多分最近入社したばかりか、社食をあまり利用しない人なんだろう。

自慢にもならないが、俺は社内では色々と有名らしいから。

「畑さん、ですよね?」

俺より幾つか年下らしい男は味噌汁を一口飲んで椀を置くと、はにかんだような笑顔で俺に問い掛けてきた。

「アレ…俺のコト知ってて座ったの?」

「社食に行くって言ったら、同僚に釘刺されました。この席は貴方専用だから気をつけろって」

「気をつけろって何よ…」

「はは、ですよねぇ」

呆れた声音の俺に対して緩んだ笑顔で返され、妙に落ち着かなくなる

「…で?気をつけろって言われて、それでもアンタが此処に座ったワケは?」

「えっと、その、身辺調査です」

「…は?」

「あ、俺、経理部の人間なんです。海野って言います」

頬いっぱいに飯を詰め込んだ海野と名乗る男は、名刺を取り出して俺に差し出した。

「経理の人間が身辺調査?」

(普通、そういうのは人事部とかの仕事でしょうよ)

経費の無駄遣いや不正流用もしてないし、きちんと領収切ってもらって申請もしてるし…思い当たる節が全くない。

「はい」

「よくわかんないんだけど…経理部の海野さんが、俺の何を知りたいの?」

「畑さん、今お付き合いされてる方はいらっしゃいますか?」

「…へ?」

「不躾ですみません。答えを聞かないと俺、部署に戻れないんです」

ぽかんとする俺を余所に、海野は『社食の飯って美味しいですねぇ』なんて飯をおかわりしに席を立った。


「ねぇ、これって、罰ゲームか何か?」

白米を山盛りに盛られた茶碗と漬け物を持って戻ってきた海野に、思い切って聞いてみる。

彼は一瞬バツの悪そうな顔をして席に着くと、すみません。と頭を下げた。

「同じ部署の子が貴方のファンらしいんです。聞いてきてって頼まれちゃって…」

「…お人好しだね。アンタ」

 実直で不器用そう、人には好かれそうだけど色々と損もしてそうだ。

「軽い気持ちで引き受けた俺も悪いんですけど…畑さんに失礼ですよね。すみません」

でも、嫌いなタイプじゃない。

営業部の人間は外回りで愛想を使い過ぎて、部署に戻った途端、素が出る奴ばかりだから。

彼のような裏表の無い人間は新鮮だ

「や、答えて減るもんでもないし。面と向かって訊かれたコトがなかったからビックリしただけ」

「え?じゃあ、答えていただけます?」

「はいはい。付き合ってる人は今いません。ついでに言うと、募集もしてません」

「うーわー…サラッと言いましたね」

「だってホントの事だしねぇ」

「不自由してないって事ですか?イヤミな人ですねー畑さんって」

屈託なく笑った海野は、飯をかき込んだ

なんだろう?誰かとこうして話をしながら食事をするのって、すごく久しぶりな気がする。

俺って割と人見知りな方だけど、海野には警戒心とか全く感じない。

はっきり言ってしまえば『感じのイイ男』なんだろう。

一心不乱に飯を頬張る姿も、小動物っぽくて何だか可愛らしい。

「そういうお宅は?」

「…へ?俺ですか?」

ダメダメ。と手と首を振る海野は、眉尻を下げて笑った。

「俺の部署の女性陣の理想は、雲より高いんです。それに、職場恋愛って色々大変じゃないですか」

そう答えた彼の表情にほんの少し翳りが見えたのは、太陽を遮った雲の所為だけだったのだろうか?














「経理部の海野?」

「そ、知ってる?ヤマト」

「知ってるも何も、僕の同期ですよ」

昼食を終えて午後の外回り。

相方とでも言うべき後輩に海野の事を訊いてみると、思いの外あっさりと知っていると返された。

「海野がどうかしました?」

「んー?社食で声掛けられた」

「へぇ、何か言われたんですか?」

「相席求められてー、付き合ってる人いるのかって訊かれてー、くだんない事話しながら飯食った」

「それはそれは…社食の君に遠慮の無い事で。…ま、アイツらしいですけど」

パチンコ屋の立駐に停めた車の中、リクライニングを倒して横になった。

外回りの午後の一、二時間はこうして暇を潰している。

真面目な社員ではないけど、ノルマはきちっとこなしているから、特に上司に文句を言われた事はない。

「ちょっと、社食の君って何よ」

「えー?知らないんですか?先輩の渾名ですよ、あだな」

ヤマト曰わく、近寄り難い雰囲気で社食の隅を陣取る俺に、女子社員が憧れと畏怖の念を込めてつけた渾名が『社食の君』らしい

何だかすごく不本意だ。

メールは苦手・中編

「先輩が悪いんですよ。革のブックカバーなんてつけて真面目くさった顔で本読んでたら、近寄り難くもなりますって」

「中身はイチャパラだよ?お前知ってるでしょーよ」

「知ってるのは一部の人間だけですよ。誰が昼の社食で堂々と官能小説読んでると思うんですか」

俺の愛読書は『イチャイチャパラダイス』という愛と希望と男のロマンが詰まった素晴らしい本だ。

インテリ気取った革のブックカバーは、本の内容を知るや否や『恥を知りなさい』と激昂した同じ部署の紅嬢が無理矢理押し付けてきた物であって、俺の趣味じゃない。

真面目くさった顔をしているように見えるのは顔が緩むのを引き締める為で、流石の俺でもデレデレ鼻の下伸ばしてる姿を公共の場で披露出来るほど神経が図太いワケじゃないのだ。

「あの子面白いね。社食で声掛けられたのなんて、入社したての頃以来だったよ」

「面白いのは先輩ですよ。声掛けられて反応したなんて話、初めて聞きました」

「そう?」

そうですよと返したヤマトは、コンビニの袋から出した缶コーヒーを投げて寄越した。

「海野って、確か社長の覚えが良くて余所から引き抜いて来たって聞いてますけど」

「へぇ、人は見た目に寄らないね。遣り手なんだ」

「割と女子社員に人気あるんですよ。愛想もいいし、空手の有段者だとか教員免許持ってるとか」

「お前、やけに詳しいね」

「給湯室に出入りしてると色々聞こえてくるんです。又聞きなんで何がホントかわかりませんけど」

「溜まり場だもんね。女ってどうしてああも噂話が好きなのかねぇ」

「言ってる僕らも噂してますけどね。海野のやつ、くしゃみしてますよ。きっと」

「ていうかさ、経理で遣り手ってどういうコトよ?」

「さあ?でも、見た感じどっちかというと営業向きですよね」

「確かにねぇ、よく笑うひとだよね。ていうかさ、お前と同期なら結構長く居るじゃない。俺、あのひと見た覚え一度もないんだけど」

駐車場の中、肩を落として帰って行く中年男をぼんやりと眺めて呟くと、ヤマトは呆れた声を出した

「それは、先輩が経費申請その他の雑務を僕に押し付けて毎日直帰してるからです。経理部に行けば、嫌ってほど海野に会えますよ」

別に、経理部まで足を運んでまで彼に会いたいワケじゃない。

ただほんの少し、気になってるだけ。












「ここ、いいですか?」

翌日、昨日と同じように声を掛けられて顔を上げると、ヤマトと散々噂した件の海野が立っていた。

「どーぞどーぞ」

やはり昨日と同じように荷物を退けると、すみません。と軽く会釈した海野はトレイを置いて俺の対面に腰を下ろす。

「今日も何か聞きに来たの?」

「はい、ご迷惑でなければ」

そう言ってにこにこ笑う海野の笑顔は、なんだか『迷惑だ』なんて言いづらくなるぐらいに明るくて堂々としている。

温和な見た目とは裏腹に、意外と押しの強いタイプなのかも知れない

というか、俺が彼の笑顔に弱いのかも。

好意的な笑顔に、年甲斐もなくソワソワしてしまう。

「アンタも物好きだね」

「そうですか?」

「人が好いっていうか」

「あ、それよく言われます」

「だろうね、でさ」

「はい?」

「俺の事聞くばっかじゃなくて、アンタの事も教えてよ」

そう言った俺の顔を見てぱちぱちと瞬きをした海野は、直後に溶けるような笑顔で笑った。

「畑さんの方こそ、物好きじゃないですか」






思い返してみれば、俺はその時の海野の笑顔にノックアウトされてたんじゃないだろうか。

元々貞操観念の高い方ではないから、いや待て相手は男だぞ。なんて戸惑いも躊躇いもなかったように思う。

というより、俺と海野が出逢うのは生まれる前から決められていた運命なんじゃないかと思ってしまう程、俺は彼にのめり込んでいた。






『ここ、いいですか?』

毎日のように海野は同じ言葉で相席を求め、俺はどうぞどうぞと席を空ける(俺の対面に座ろうなんて人間は端からいないけど)

社食の日替わり定食をつつきながら、毎日色んな話をする。

当初、俺の身辺調査だと言っていた海野が俺に関して質問をするのは最初のひとつだけ。

一日、ひとつ。

何かを聞かれたら、俺も同じ質問を海野に投げる。

『好きな色は?』

『好きな歌は?』

『好きな映画は?』

なんて他愛もない、互いのプロフィールをひとつひとつ埋めていくような昼の短い休み時間は、いつの間にか俺にとって一番楽しみな時間になっていった。

会社が休みの日なんて、退屈で仕方なくなるほど。

月曜が待ち遠しくて、日曜の夜には寝付けないぐらい翌日の昼に期待してしまう自分には、驚くと同時に少し情けない気分にもなったけれど。




日数を重ねる程に互いを知ってそれなりの時間を共にすると、徐々にルールが出来上がってくる。

例えば、これは言っちゃダメだな。とか、この話題は振らない。とか。

誰もが他人と接する時自然と引くそのラインは、勿論俺達の間にもうっすらと敷かれていて。

ひとつ、社食以外では会わない。

これは、どっちかが決めたとかじゃなくて、自然とそうなっていた。

俺と海野は部署が違う

配置されている部署のフロアが違うから、どちらかが会いに行こうと思わない限りまず顔を合わせる事はない。

俺が外回りで、海野が内勤という事もあるだろう。

ヤマトが言ったように、経理部にさえ足を運べば会う事は不可能じゃない。

でも、俺はそれをしたいと思わなかった。

経理部に赴いて事務的な対応をされたらヘコみそう。なんて馬鹿みたいな理由と、何故か俺が余所の部署に行くと、ジロジロと不躾な目で見られる。それが嫌だから。

それともうひとつ、俺達は互いの連絡先を知らない。

これは『いつか聞こう』と思っているうちに聞く機会を失ってしまって、今更メールアドレスや携帯番号の交換をしませんか。なんて言い出し難い雰囲気になってしまっているから








俺のささやかで秘めやかな恋心は、誰にも知られる事なくひっそりと、俺の胸の内だけで咲き誇っていればいい。

そう思っていた、のに。

「海野イルカのケー番とアドレス、幾らで買う?」

ヒラヒラと小さな紙切れを揺らして俺のデスクに近寄ってきた女は、甘ったるい匂いを撒き散らしてニッコリ笑った

「アンコ、お前…何よ急に」

御手洗アンコ、言わずと知れた同じ部署の人間で、紅の無二の親友だ。

「今月ピンチなのよね。それなのに、明後日木ノ葉ホテルのケーキバイキングがあるの!『あの』木ノ葉ホテルよ?ミシュラン三ツ星のホテルのケーキバイキング…是非にも行かなきゃ女が廃るってもんでしょ!?」

そんなの、俺の知ったこっちゃない。

そう言おうと思っていたのに、俺の目はアンコの持つ紙切れに釘付けになっていた。


「俺に集らなくても、イビキに連れて行ってもらえばいいデショ」

「アイツは出張中。それにアイツの仏頂面みながら食べてたら、折角のケーキの美味しさが半減するじゃない」

数字の並んだ紙切れを見つめる俺の横で、諭吉さんに頬擦りをするアンコは真面目くさってそう言った

「ていうかさ、なんで?」

「何が?」

「いや、だから、なんで海野の番号をお前が知ってるの?」

そして、俺がそれを知りたがってたって事も。

いや、多分それに関してはヤマトからアスマ、アスマから紅、紅からアンコ。なのだろうけど。

全く、プライバシーとか配慮するとか、そういうのが無いんだ此処の人間は。

「なんでって、聞いたからに決まってるじゃない」

「誰に?」

「海野イルカ本人に決まってるじゃない。他に誰がいるってのよ?」

「どうやって?」

「ケー番とアドレス教えてって……アンタこそ何なのよ?嬉しくないワケ?」

正直、複雑。

海野の番号とアドレスを、本人の知らない所で目の前の糖分狂いの魔女から金で買ってしまった事、彼は俺の番号を知らないのに、俺は彼の番号を知ってるっていう罪悪感っていうか…。

誕生日や好きな物、色んな事を海野の口から聞いてきたのに、ここに至って他人から彼の情報を仕入れてしまった気持ち悪さみたいなものとか。

嬉しさよりも先立つ感情に、何とも言えない微妙な感じだ。

「あ、やっぱり返すとかは無しだからね。アンタの事だから、もう覚えちゃったんでしょ」

そそくさと財布に諭吉さんを仕舞ったアンコは、それじゃあね。と手を振って去って行った。

そりゃあね、もう覚えたけどさ。

自分の携帯に登録するのは忍びなくて、俺は紙切れをシュレッダーに掛けてデスクに突っ伏した。

メールは苦手・後編

「え、それで最近社食に行ってないんですか?」

「…ま、そういうコト」

「先輩って、変なトコ律儀ですよね」

アンコから不正に海野の番号を買ってから一週間。

どうにも海野と顔を合わせ辛くて、俺は社食に行くのを止めていた。

昼飯はデスクでコンビニ弁当を食うか、アスマやヤマトと連れ立って近所の定食屋に行くか。

はたまた中庭で独りぽつんと惣菜パンに噛み付くか、だ。

中庭から見上げれば社食のある階があるけど、鏡張りの硝子の所為で中までは見えない。

海野はどうしただろう?

急に現れなくなった俺を、少しは気に掛けてくれてないかな。なんて。

ああもう、女々しい自分がイヤになる。

「先輩、海野のアドレス知ってるんですよね?メールしてみたらどうですか」

ヤマトは自分の皿に乗っていた中華定食の揚げ餃子を俺の皿に移しながら、俺がこの一週間迷いに迷って止めた行動を、何でも無いことのように促した。

「それが出来れば苦労はないんだって」

油っこいのがイヤなら中華定食頼むなよ。と思いながら、揚げ餃子を口に運ぶ。

「大体、何て打つのよ。『お久しぶり、アンタのアドレス金で買いました。それで顔を合わせ辛くて社食に行ってません。元気ですか?』って?」

「先輩、どれだけバカ正直なんですか。普通に『コレ、俺のアドレスです』とかでいいじゃないですか」

「だーってさ、そんなの、どうやってアドレス知ったワケ?ってなるデショ普通」

「僕から聞いた事にしていいですよ。アイツとはたまにメールするし、先輩の話もしますし」

ちょっと待った、聞き捨てならない

今、コイツは何て言った?


「お前、そんなに仲良いの?」

「アイツ、ああ見えてモテるんですよ」

ああ見えては余計だよ、馬鹿ヤマト。

「女の子の知り合いが多いから、合コンのセッティングとか…って、ああッ!?何するんですか先輩!」

ほんの少しムカついて、ヤマトのカニ玉にラー油をぶっかけてやった

「…海野も行くの、合コン」

「いや、アイツは来ないです。付き合い悪いんですよ。そういえば、プライベートは一切謎なんですよね。休みの日に誘っても出て来ないし」

「そんなものじゃないの?休みの日にまで会社の人間と会いたくないよ、俺は」

まあ、先輩は特別ですから。と失礼な事を言って、ヤマトは水を飲み干した。

「俺の話って、何」

「はい?…ああ、気になります?」

「なんなら口にラー油入れてあげようか」

「勘弁して下さい!話すって言ったって、普通の事です。…まあ、主に僕の先輩に対する愚痴とか…」

「愚痴」

「いやっ、如何に先輩が尊敬出来るひとかっていう事をですね。うう…ああ、その……あっ!海野、心配してましたよ!先輩の姿見なくなったって、体壊してるんじゃないかって」

ヤマトの言葉に、少しだけニヤけてしまった

「お前、変なコト言ってないでしょーね」

「大丈夫です。先輩は体壊してないし、ただ単に気紛れなだけだからって……」

ホントに腹の底からムカついた俺は、ラー油一瓶をヤマトの口に流し込んで定食屋を後にした。













メールも打てず、勿論電話も出来ないまま三ヶ月が過ぎた

社食にも行かなかった。

社内で海野に会う事もなかったし、ヤマトも海野の事は口にしなくなった(ラー油がかなり堪えたらしい)

遮二無二仕事に打ち込んで、普段は行かない出張まで自ら進んで行った。

そうでもしないと、やってられなかったのだ。

忘れてしまえと思えば思う程、海野の笑顔や声なんかが思い出されて。

街やテレビで、海野が『好きなんです』と言っていた物が目に映ればイヤでも彼の事を考えてしまう。

生まれて初めて、誰かひとりの事で頭も胸もいっぱいになるだなんて事、四半世紀以上生きてきて経験した事がなかったから。

これが『恋』だなんて、苦し過ぎる。

どうしたらいいかもわからない。

携帯を開いて、メールを打っては消し、打っては消し。

忘れる事の出来ない十一個の数字を打っては、通話ボタンすら押せなくて。

あんまりにも携帯を開いたり閉じたりしているものだから、『畑カカシは携帯依存』だなんて変な噂まで立ち始めたらしい。

営業課の連中は出張土産だと言って、俺にストラップを買ってくるようになった(意地でも付けてやらないけど)

そんな日々を打破したきっかけは、アスマの寄越した土産物だった。

屋上で煙草をくゆらす俺に近付いてきたアスマは、ほらよ。と薄い紙袋をふたつ差し出した。

「…何で、ふたつ?」

「いい加減見てらんねぇよ。男だろ。当たって砕けて来い」

面倒くさそうに頭を掻いたアスマは、とりあえず開けてみろ。と俺を促す。

何処かの水族館の、『イルカ』のストラップ。

「アスマ…」

「あー…余計な世話だってのはわかってんだ。お前が憂さ晴らしに仕事に打ち込んでるのを見るのがな、しんどいんだよ。俺が」

もうひとつの紙袋も、イルカのストラップだった

でも、そっちには。

デフォルメされた可愛らしいイルカの口の辺りに、うっすら走る彼のような傷。


「言っとくがな、俺の案じゃねぇぞ。紅が」

「出張じゃなかったんだ?」

アスマは水族館なんて、出張先に行っても寄ったりしない男だ

「五月蝿ェ。そんなこたどうでもいいだろ。兎に角それ持ってだな…」

「うん。わかった。アリガトね、アスマ」

「止めろバカ、気持ち悪ィ。有り難く思うんなら、さっさとケリつけて酒でも奢れ」

「フラれたら奢ってくれるんデショ」

「フラれてもお前ェの奢りだ」

アスマの背中を見送って、手の中のストラップに視線を移す。

携帯を開いて、ひとつ深呼吸をした。













To:海野イルカ
Sub:こんばんは
お久しぶりです、営業課の畑です。
同僚にもらった出張土産のお裾分けをしたいので、明日の昼、社食で会いませんか?



結局、それだけ

それだけを打つのに、休日を丸々使ってしまった。

染み付いた打っては消し。の習性は、お節介な同僚の柄にもない後押しにも関わらず、俺の中から消え去る事はなかったらしい。

初めは件名も『おはようございます』だったのだ。

何度もやり直しているうちに昼を過ぎて、件名は『こんにちは』になった。

それからまた読み返して打ち直して、気付けば夜。

時計は二十二時を差していて、このままじゃまた『おはようございます』に戻ってしまいそうだった。

腹、括れ。

当たって砕けろ。

俺の携帯には、アスマからもらった傷入りイルカのストラップが揺れている。

ままよ。とばかりに送信ボタンを押して、画面に出た『送信完了しました』の文字に、どっと力が抜けた。

汗だくになってしまった掌をTシャツで拭う。

どうにも落ち着かなくて携帯を放り投げ、山盛りになった灰皿や空き缶を片付けていた時だった。

デフォルトの着信音。

思わずビクリとして、指先から落ちた灰皿の中身がラグの上に散らばる。

それを飛び越えて、ベッドの上で小さく震える携帯電話を勢いよく開いた。

何度も反芻した十一桁。

何度も打っては消した番号。

信じられない。と思いながら、切れてしまう前に。と震える指で通話ボタンを押す。

「……もしもし…?」

『あのっ、夜分にすみません。畑さんの携帯…ですよね?』

「はい。…海野くん?」

『はい!今、お時間大丈夫ですか?その、俺、メール見て…』

ああ、電話で良かった。

だって俺は、嬉しいやら驚くやらで腰が抜けてしまったし、携帯を握っている手は馬鹿みたいに震えていたから。

「えーと…お久しぶり、デス」

『お久しぶりです。あの、畑さん?』

「うん?」

『今から会えませんか?俺、どうにもメールや電話って苦手で…。実は貴方の番号もアドレスも、かなり前から知ってたんですけど…何てメールしたらいいかわからないし、電話だって迷惑かなって思ったらかけられなくて…それで、その、』

「うん。俺も」

『……え?』

「俺も苦手なの。メールも電話も。だから、」












『今から俺んち来ませんか?』

とは流石に言えなかった。

海野の家と、俺の家は案外近かったらしい。

『それじゃあ火ノ国公園で』と言った海野からの電話を切って、俺はサンダルを引っ掛けて着の身着のまま慌てて家を飛び出した。

海野に渡すストラップも忘れて出て来てしまったけれど、あんな物がなくてもきちんと言える筈。

どうしてもダメそうだったら、俺の携帯でゆらゆら揺れるかわいいイルカに助けてもらう事にしよう。





end