賞味期限切れ

機嫌の良い彼を見るのがすき。








「イルカせーんせ」

「カカシさん!お疲れ様です!」

アカデミーの花壇前、ホースで水を撒いているイルカ先生を見つけた。

任務後で疲れていたというのに思わず声を掛けてしまったのは、言わばアレ、条件反射みたいなものだ。

俺が思うに、イルカ先生からは磁力的なモノが出ていて。

俺の中に在る『とあるモノ』が、イルカ先生の磁力に引き寄せられて、体が勝手に近付いていってしまうんじゃないだろうか。

それについて、『なんで?』とか『どうして?』なんて、考えるだけ時間の無駄で、抗うだけ馬鹿らしい。

里に居る時、このひとの近くに居る時ぐらいはあれこれ考えるのを止めてみることにした。

俺にとってはそれが一番楽なんだと、最近ようやく気付いたから。

「今日は受付じゃなかったんですね」

「休みだったんです」

何をするとはなしに、彼の横に立つ

言われて見れば、イルカ先生はベストも額当てもしていなかった。

「休みの日なのに、此処で何してるんですか?」

イルカ先生は俺に水がかからないようホースを捌きながら笑う。

「花の水やりです」

「見りゃわかります。ていうか、イルカ先生の仕事じゃないデショ。今日休みなんでしょ?」

「…あ、いま俺のこと、すげぇ暇人だと思ったでしょう?」

「だってねぇ」

「ナルトから、手紙が来たんです」

「…へ?」

「いつもは絵葉書一枚なんですけど…今回は珍しく封書で」

読みます?とポケットから出された封筒を受け取る

ナルトらしい豪快な字で、イルカ先生の家の住所と、イルカ先生の名前。

ナルトが自来也様と修行に出てから暫く経つ。

封筒からはみ出してしまいそうな程大きな文字に、太陽のようなあの子の笑顔が浮かんだ。

「読んでもいいですか?」

「どうぞ」

そっと封を開けて、中の紙を取り出し広げた。

『イルカ先生元気か?オレは元気だってばよ!エロ仙人も元気!花の水やりよろしく!ナルト。』

「え…、これだけ?」

「はい」

やはり紙からはみ出しそうに大きく書かれた名前の後ろにぐるぐると渦巻いているのは、木ノ葉マークだろうか?

ねぇナルト、元気なのは伝わったけど…もっと、今何処に居る。とかさぁ…修行は順調!とか書くべきなんじゃない?

「ナルトのやつ、ああ見えて筆まめなんですよね」

「……イルカ先生、それ『親バカ』って言うんですヨ。これだけなら、絵葉書一枚で事足りるでしょうに」

「カカシさん、忍は裏の裏を読め。ですよ?」

悪戯っぽく笑うイルカ先生を不思議に思いながら、紙をひっくり返してみる

裏には葉っぱが二枚くっつけられていた。

「…葉っぱ?」

貼り付けられた葉の下には矢印が引いてあって、『イルカ先生とカカシ先生へ』と書いてある。

「俺、それ見たら嬉しくなっちゃって」

「……?」

「カカシさん、それ四つ葉のクローバーですよ」

「葉っぱ、だよね?」

呆れ顔のイルカ先生は、知らないんですか?と四つ葉のクローバーなる物の話をしてくれた。

見つけようとして見つけられるような物ではないこと

四つ葉の小葉は、それぞれ『希望』『誠実』『愛情』『幸運』を象徴しているということ。

「子供の頃、探したりしませんでした?」

「俺が子供の頃探してたのは、薬草か敵の足跡ぐらいですもん」

「あ…。す、すみません…」

「ふふーん、冗談です。そんな珍しい物なんですか?コレ」

「見つけたいと思って見つかる物じゃないんです。それを、俺とカカシさんにっていうナルトの気持ちが…くすぐったいんですけど、嬉しくないですか?」

彼はアカデミーにいる間は大抵笑顔なのだけれど(生徒を怒っている時は別として)

最初見た時から、今日のその顔はいつもと少し違う気がした。

それは多分、可愛いナルトからの手紙と、精一杯の贈り物。

その両方と、何より師を慮る彼の気持ちが嬉しくて嬉しくて

「嬉しいけど…複雑、かな」

「はい?」

「ナルトは、いとも簡単にアナタを極上の笑顔に出来るんだもの。ちょっと妬けちゃいます」

「水、掛けましょうか?」

「すみません、勘弁して下さい」

ホースを俺の方へ向けようとするイルカ先生を慌てて制す。

油断してると、ポロッと本音が出てしまう。

『彼の傍が楽』という弊害かも知れない。

(気をつけなきゃね。それにしたって、水を掛けられた所で焼け石に水、なんだけど)

「ふふ、冗談です。大事にして下さいね、それ」

「はぁい。…幸運のお守りですか、御利益ありますかね?」

「俺は早速ありましたよ」

「え…?どんな?」

「貴方が今、無事で此処にいる事…ですかね?」

ああ、いやだなぁ。

久しぶりに暗部の任務だったなんて、俺は一言も彼に伝えてない。

出先で血の匂いも人を殺した名残も、全て落としてきたつもりだったのに。

「怪我、されてないみたいで安心しました」

「うん」

「夕飯、俺んちで食べますよね?」

「うん。……ん?」

「よかった。断られたらどうしようって思ってたんです」

照れくさそうに笑い、イルカ先生はコレ片付けてきます。と言って踵を返した

機嫌良さげにピョコピョコ揺れる彼のトレードマークに、僅かな疑問が涌く。

「ねぇイルカ先生?もしかして、俺のコト待ち伏せてました?」

「はい。実は、此処で捕まえられなかったら家まで押し掛けるつもりでした」

ああ、何てこと、

ナルト、ありがと。

俺にも早々に四つ葉の御利益があったみたい。

自分の指の先でくるくる風に揺れる葉っぱをイチャパラの間に挟んで、『賞味期限間近の物、早く食べないと勿体無いし』なんて後付けにしか聞こえない大きな独り言を言うイルカ先生の後を追い掛けた。

 




end

ストーカー

「今すぐ、そこから降りて下さい」

普段の穏やかさからは考えられない程の鋭い声でイルカは唸った。

彼の視線はアカデミーの校庭にある、一本の木の上を睨み付けている。

夕暮れ時。

校庭には親の迎えを待つ子供達がきゃあきゃあと声を上げ、影踏みだか鬼ごっこだかに興じている。

幾人かの子供達は校庭の隅で木に向かって話し掛けているイルカを足を止めてチラリと見たが、見慣れた光景にさして気を留める事もなく遊びへと戻っていった。

遠目からは木に話し掛けているようにしか見えない(実際には木の上、葉の中に身を隠した男に話し掛けているのだけれど)

木ノ葉のアカデミーではここ数ヶ月、日常茶飯事の光景なのだ。


「聞こえてるんでしょう?降りて来て下さい。話があります」

「………」

イルカの視線の先には銀髪の男がいる

左目を額当てで隠し、顔半分を口布に覆っているその男は、木ノ葉の上忍はたけカカシだ。

ここ何ヶ月かイルカの後を付け回しているその男は、同性であるイルカを『好き』だと言った。

仲間や友達としてではなく、イルカに恋をしている。そういった意味で好きだと言う。

『好きだから、いつでもアナタを見ていたい』

エリート上忍にしては陳腐な口説き文句だなと思いながらも、からかわれているのだろうと思ったイルカはカカシの告白をさらりと受け流して、相手にしなかった。

しかしどうやらカカシは本気だったらしく、本当にいつでもイルカを見ているようになったのだ

見守るというより、監視に近い。

イルカの行く先々に現れ、イルカに声を掛け、イルカに笑顔を向けた(遂には家にまで押し掛けるようになった)

カカシの行動から、彼の好意が本物だったのだとイルカが気付くまでにそう時間は掛からなかったのだけれど、大きな問題がひとつ。

カカシは里屈指の忍で、里の財政を潤す高ランク任務を請け負う身だ。

そのカカシが、一介の中忍(しかも男)に入れあげて、相手の職場はおろか自宅にまで日参している。

任務はどうしたんですか。と問い詰めるイルカに、カカシは代わってもらいました。と返すだけ。

木ノ葉には優秀な忍が沢山いるから問題は無いとカカシは言う。

それは確かにその通りで、イルカもそれには納得したのだけれど、自分を追い回している暇があるのなら任務のひとつもこなせよボケ上忍。と思う気持ちの方が遥かに強い。

イルカはカカシの事が嫌いなわけではない

むしろその逆、今となっては真っ直ぐ自分に向かってくるカカシが好ましくさえある。

しつこさに絆されたと言ってしまえば身も蓋もないが。

つきまとわれても迷惑に感じなかった時点で、己はカカシに惹かれていたのだろうとイルカは思う。

自分の気持ちは認めた。

けれど、どうやって伝えたらいいかがわからない。

唐突に好きだと言って、果たして信用してもらえるだろうか?

『俺の相手をしている暇があったら、真面目に任務に行って下さい』

イルカは幾度となくカカシにそう言って、任務に行くよう促した事がある。

自分の気持ちを伝えたとしても、任務に行かせたいが故の言い逃れのように思われたらと思うと、易々とカカシの気持ちに応える事が出来ない。

だから、イルカは決めた。

次にカカシから好きだと言われたら、偽る事なく自分もそれに応えよう、と。

けれどここ三日ほど、カカシはイルカの前に姿を見せこそすれ、好きだと言う事はなかったのだ。





自分を睨み付けるイルカを、カカシは困ったように見下ろしている

へらりとした笑顔を向けても、イルカは表情を緩めようとはしない。

「降りて来ないなら、俺がそっちに行きます」

言うなり地を蹴ったイルカは、カカシがあ。と思った時には目の前にいた。

「あの…イルカせんせい?」

「キスしましょうか」

「は?……えぇっ!?」

驚いたカカシが後退るも、背後は木の幹

間近に迫ったイルカの顔に、カカシはダクダクと汗を流している。

「……何処です?」

「は…はい?何がですか?」

「カカシさんは、何処ですか」

「や、やだなぁ。何言ってるんですか。カカシは俺ですよ?」

「貴方が誰かは知りませんが、俺は今すぐ、カカシさんと話したいんです。カカシさんは何処です?出して下さい」

「………」

「まさか、病院ですか?大怪我して、それで俺の所に来られない、とか?」

「ち、違います!カカシ先輩は任務で!」

「…センパイ?」

怪訝な表情を浮かべるイルカに、カカシ(らしき男)はガリガリと頭を掻いた。

「僕は、カカシ先輩の後輩です。先輩が暗部にいたって話、知ってますよね?」

コクリと頷いたイルカの表情が和らいだのを見て、カカシの姿をした男はホッと息を吐く。

「先輩は任務で、里にいません。任務内容までは詳しく言えませんが、写輪眼が必要な任務なんです」

「…で、貴方がカカシさんに変化して?」

「先輩に頼まれましたから。あなたを見張って、笑顔を振り撒けって」

「見張るって…」

「先輩、ああ見えて必死なんですよ?あなたに悪い虫が付かないように四六時中見張って」

「…虫なんか、付きようがありませんよ。…カカシさんが一番、充分過ぎる程知っているくせに」

「そういうひとなんです。あなたも知ってるでしょう?」

「まあ…笑顔が下手ですよね、あのひと」

イルカの言葉に、カカシの姿をした男はプッと吹き出した

「あまり慣れてないらしいですよ、好意を表情に乗せるのが。……ま、そういうワケなんで。先輩が戻ってくるまでは、僕があなたを見てますから」

カカシの顔で笑う男に、イルカはぎこちなく笑顔を返す。

後輩だという男は本物のカカシと違って、とても綺麗な顔で笑っている。

(俺、カカシさんについて知らない事がまだ沢山あるんだな)

カカシが戻ってきたら、こんな風に同じ目線に座って、色々な話がしたいとイルカは思った。

「そういえば…まさかたったの三日で見破られるとは思いませんでしたよ」

男の変化は完璧だった

男は、昔からカカシを知っている。

細かい癖や、無意識の仕草さえも知り尽くしているからこそ、カカシは自分の代わりを男に頼んだのだ。

イルカは悪戯っぽく笑うと、カカシさんには秘密ですよ。と囁いた。

「あのひとが俺を見てるのと同じぐらい、俺もあのひとを見てるんです」

男は成る程なぁ。と呟いて、イルカと同じように悪戯っぽく笑った。




end

溢れた感情

お互いにほんの少しだけ疲れていて、ほんの少しだけ余裕がなくて。

僅かな齟齬から言い争いに発展したけれど、常ならばカカシさんが折れて終わりになる筈だった。

今回に限ってそうならなかったのは、俺の所為。

『貴方は全て自分の思い通りになると思ってるんでしょう』

血の上った頭で紡いだ言葉は、薄々思いこそすれどこれまで一度として口に出した事のないものだった。

俺とカカシさんの間にはどう足掻いても縮めようのない溝みたいなものがある。

他人ならば当たり前。否、例え血の繋がった身内であっても、自分と同じ考えや感性を持つ人間はいないというのに。

恐らく俺達の根底には似通ったモノが濁り漂っていて、互いのその部分に惹かれて共感したり、反発したり。

それを心地良く思いこそすれ、疎ましく感じた事などこれまでなかったのに。

決定打となったのは、幾度となく彼に指摘された俺の階級コンプレックスが原因かも知れない。

例えば思うのだ。

『上忍のカカシさんに知り合った』のではなくて『知り合ったカカシさんが上忍だった』のならば、俺と彼の関係は今とは少し違っていたのではないか、と。

勿論、カカシさんが上忍だから惹かれた訳じゃない。

そう思ってはいても、折に触れて彼と自分の力量の差を思い知らされる。

ただの憧れなら、それで良かった。

身体を繋げて、心まで繋がったつもりでいても、やはり他人は他人で。

俺は俺で、カカシさんはカカシさんなんだと頭の中では理解していても、力の差や立場の違いに直面する度に矮小な己が首を擡げる。

貴方は上忍で、凄いひとだから。

何もかも自分の思い通りにしたいのでしょう?

そう出来ると思っているのでしょう?

でも俺だってひとりの男で忍で人間で。

貴方には遠く及ばずとも自分なりのルールに沿って生きている。

小さな子供でもないし、か弱い女性という訳でもないのだから。

守ってくれなんて頼んじゃいないし、貴方ひとりに人生を捧げます。なんて大層な事を言った覚えもない

だから、だから、

堰を切ったように溢れ出した言葉は、こんな時でも低く柔らかいカカシさんの声に遮られた。

『そう出来たら良かったのにね』

彼の言葉の意味を察し、弾かれたように顔を上げた俺の顔を見て困ったように眉を下げたカカシさんは、黙って荷物をまとめて出て行った。














カカシさんの短い言葉に含まれていたのは、常日頃から彼を苛んでいた悔恨の現れだったに違いない

誰しも考える事だ。

『全てが思い通りに出来たのなら』

大切なひとを誰ひとりとして失わず、自分が一番いいと思える世界の在り方で生きて来られたじゃないか。

彼の親友も、師も、彼の愛して止まなかった父親でさえその世界では生きていて。

あの子は腹の中に狐を飼わずに済んで、両親や友達に囲まれ幸せで。

無論、俺の両親だって―…。

けれどそんな事は『もしも』の話で。

『もしも』そうだったとしたら、俺とカカシさんは同じ里に住んでいたって出逢う事すらなかったかも知れないのに。

(俺がつまらない意地を張ったから)






元々物を持たないカカシさんの荷物は、綺麗さっぱりと俺の家から無くなっていた

戻らないカカシさんに腹を立てながら自棄酒を喰らって、目を開けた時には空が白み始めていた。

こんな日でも朝は来るし、アカデミーで授業をしなけりゃならない。

卓袱台に突っ伏していた体をのろのろと起こして、足を引き摺るように洗面台に向かう。

終わった事なら、受け入れなければ。

俺が自分で招いた事だから。

「…………」

洗面台に、青い柄の歯ブラシが一本。

ほんの数時間前までは、よく似た色の歯ブラシがもう一本並んでいた。

同じような色だと間違うからと、何度も言ったのに。

買い替える度にカカシさんは同じような色合いのを買ってきたっけ。

「…俺のじゃない」

洗面台に残されていたのは、カカシさんの歯ブラシだった

安っぽいプラスチックの柄は、持ち上げて蛍光灯に透かすと少しだけ揺らめき光って見えた。

貴方と行った海。

貴方と見上げた晴れの空。

貴方の瞳に少しだけ混じる青色。

こんな物を見て思い出すのが貴方の事ばかりだなんて。
















俺は裸足で家を飛び出した

きっと恐らく、これすらカカシさんの策略なんだとわかってはいても。

免罪符代わりに違いない青い歯ブラシを握り締めて、一路彼の家へとひた走った。




end

痴話喧嘩

「…イルカ?」

「ん…?…あぁ!なんだお前か、久しぶりだなぁ!元気してたか?」

「見たまんまだよ。お前は……相変わらずだな」

「うるせー、ほっとけ!」

僕の横に座るカカシ先輩が、物凄くイライラしているのが手に取るようにわかる。

宅飲みは寛げるし時間の自由が利く所が利点だけれど、僕らが部屋で飲もうという話になった時お邪魔するのは、九割方イルカさんの部屋だ。

そうなると、自然と給仕をするのはイルカさんの役割になってしまう。

イルカさんの恋人であるカカシ先輩は兎も角、僕と多少はくだけた話を出来る程の仲になっても、彼の中で『階級』というのは大きな引っ掛かりになるらしい。

暗部なんて、階級があるようでないようなものなのだから気にしなくていいのに。

『火影直属』って響きが、どうにも高尚に聞こえるんだろうか。

まあ、それは横に置いておくとして、ここ最近は僕と先輩とイルカさんが集まって飲む時は居酒屋を使う事にしていた。

勿論、イルカさんに気を遣わせない為だ。

イルカさん行きつけの居酒屋は、中忍ばかりが集まる大衆的な飲み屋

初めの方こそ連れ立って現れた僕達をヒソヒソ遠巻きに見ていた他の客達も何度か通ううちに見慣れたのか、酔いに任せて話し掛けて来たりもするようになった。

大抵は先輩目当てのくのいちだったり、いつぞやの任務ではお世話になりました!なんて、先輩に礼を言いにきたりする男連中だ。

面白い事に、先輩目当てのくのいちは一人でも話し掛けてくるのに対し、礼を言いに来る男達は数人で固まって声を掛けてくる。

先輩が暗部に在籍していた頃はあまり大っぴらに外で飲んだ事がなかったから、里での『写輪眼のカカシ』はこういう扱いを受けているんだな。と思って少しだけ笑ってしまった。

イルカさんは、知ってはいたけど顔が広い。

伊達にアカデミー教師と受付を兼任しているわけではない。と思わせる程、やたらと声を掛けられる。

彼の明るくて人懐こい性格も相俟ってだろうけど。

だから、さっきのような会話も別段珍しくはないのだ。

なのに、

なのに、今日の先輩は何故か無性にイライラしているようだ。

パカパカとグラスを空け、僕に『注げ』と無言でグラスを突き出す。

イルカさんは旧知の仲らしい男と昔話に花を咲かせているが、こんな光景、何度だって見てきたじゃないか。

先輩の勢いに押されて酌をしつつ、僕もチビチビと酒を舐める。

聞くとはなしにイルカさん達の話に耳を傾ければ、男は長らく国境警備の任務についていたらしく、つい先日ようやく里に戻って来たらしい。

先輩の嫉妬深さは先輩本人の口から聞いていて知っていたけど、旧友の帰還を素直に喜ぶイルカさんにヤキモチを妬いてもなぁ。

「そうだ、イルカ。俺、年内には結婚するからさ」

「うーわ!マジか!おめでとう、式は?」

「やるやる。イルカ、来てくれるか?」

「当たり前だろー?その代わり、祝儀は期待するなよ?」

「はは、わかってるって。お前の祝儀なんざ、はなから期待してねーし」

イルカさんと小突き合ってゲラゲラ笑っていた男は、僕達に気付くと軽く頭を下げて店の奥へと消えていった

「すみません。アイツうるさくって…」

僕達の方へ向き直ったイルカさんは、ニコニコ笑っていてかなり機嫌が良さそうだ。

そんなイルカさんに比例するかのように、不機嫌を隠そうともしない先輩は、ブスッとしたまま口を開こうとはしない。

「いやいや、気にしないで下さい。今の人、結婚するんですよね?」

「らしいです」

あーあ、また祝儀包まないと。なんて、愚痴りながらも笑顔のイルカさんは、先輩の表情を見てピタリと動きを止めた。

「…カカシさん?」

「ヤマト、壁」

「はあ…」

短く発せられた先輩の言葉に、僕は小さく溜息を吐いて木遁を使った


四柱牢と木錠壁の複合術とでも云おうか。

狭い酒場の中で発動するにはなかなかに気を使う、先輩の言う『壁』とは、簡単に言えば僕達の周りに完全防音の個室を作り出す事。

パン、と手を合わせた僕達の周りに、みるみるうちに外界から遮断された個室が出来上がる。

かつて『木遁って便利ですねぇ』とのんびり言い放ったイルカさんも、今はただ驚いて目を丸くするばかりだ

先輩が『壁』を作れと言ったという事は、今から周りに聞かれたくない話をするに違いない。

ああ、なんだかんだで先輩のペース巻き込まれてしまうのはいつもの事だけれど、今回ばかりは勘弁願いたかったなぁ。

「あの、ヤマトさん…コレは?」

まだよくわかっていないらしいイルカさん。

今から嫉妬に駆られた先輩の、尋問詰問が始まるんですよ。とは口が裂けても言えない僕は、曖昧に笑って先輩へとイルカさんの視線を促した。

「………イルカ先生、さっきの男は?」

「…え?」

「やけに親しいみたいだったけど」

「古くからの知り合いですよ。長いこと国境警備の任務に付いていたから、会うのはすごく久しぶりだったんです」

イルカさんと先の男の遣り取りを聞いていれば、わざわざ尋ねなくてもわかる事だ。

旧友に会えば、誰でもあれぐらいの会話は交わすだろう。

国境警備となれば、決まった日程で駆り出される里駐在の忍とは違って四六時中気を張っていなければならない。

他国と戦争だなんて事になった時、一番に危険に晒される場所だ。

旧友の無事の帰還を労う事の、何がそんなに気に食わないのだろう?

先輩は一体、何を勘ぐっているのやら。

「何も隠す事ないじゃない」

「隠すって…そんな、」

「付き合ってたんでしょ?さっきの奴と」

「えっ!?」

間抜けな声を上げてしまったのは、僕だった

先輩は真面目な顔でイルカさんを睨んでいるし、イルカさんはウロウロと視線をさまよわせている。

ああそりゃ、壁も作らされるワケだ。

「なんで隠したの?俺が妬くと思った?」

僕は、さっぱり気付かなかった。

イルカさんとさっきの彼が『そういう仲』だったという事も、イルカさんがそれを先輩に隠そうとした。なんて事も。

現に今、目に見えそうな程メラメラと嫉妬の炎を燃やしているカカシ先輩は、イルカさんの僅かな機微からそれを悟ったのだろう。

元からある観察力の高さに加えて、生半なものではない付き合いの長さが窺え、僕は不謹慎ながら顔がにやけてしまった。

全く、僕の尊敬して止まない先輩はどれだけイルカさんの事が好きなんだろうか。

「隠すとか隠さないとかでなくて…わざわざ言う必要がないと思ったから、言わなかっただけです」

「俺が気が付かなければ、それでいいと思ったって事?」

なんだろう。

ピリピリし始めた空気の中、重ねて不謹慎だけど、同性同士の痴話喧嘩ってのは異性の恋人同士とさほど変わらないのかも知れないなぁとぼんやり思う。

それにしても今の先輩、すごく、すーごくカッコ悪い。

「アイツとは、随分前に終わってるんですよ。終わった事を蒸し返して、俺とカカシさんの間に波風立てるのが嫌だっただけです」

「だって、さっきの奴と寝てたんでしょ?」

「ブフッ!」

先輩の発言に、僕は思いっきり噎せた。

全く動じていないイルカさんは、流石というべきか。

「そりゃあ、付き合ってましたから…」

「どれくらい付き合ってたの?何回ぐらい寝た?」

ネチネチネチネチ。

僕の知ってる先輩は、こんなに女々しくなかった筈だけどなぁ。

ゲホゲホと咳き込む僕の背中をさすりながら、イルカさんは呆れた声を出した。

「アンタ阿呆ですか」

当然か、僕だって噎せてなければ同じ事を言ったかも知れない。

「だって!」

「ああもう!終わった事だって言ったでしょう!?なんならアイツ引っ張ってきて、証言させましょうか!?」

呼ばれたところで、イルカさんの元カレが大迷惑だろうからそれは止めて欲しい。

「…それじゃイルカ先生、コレだけ答えて。そうしたらこの話は終わりにしますから」

「…なんですか」

じろりと先輩を睨むイルカさんと、恨めしげにイルカさんを見る先輩の間に挟まれた僕は、気分を落ち着かせる為にすっかり氷の溶けた烏龍ハイを口に含む

もう少し強い酒、頼んでおけば良かったな。

「俺とアイツ、どっちの方が上手い?」

「……っ!」

危ない、危うく噴き出すところだった

「………」

「………」

「カカシさん………アンタねぇ、」

「答えて下さい!」

先輩の叫びは、悲痛という表現がまさにピッタリだった。

呆れを通り越したようなイルカさんの顔を見ながら、僕は固唾を飲んで彼の言葉を待つ。

聞きたいような、聞きたくないような。

「…比べるなんて、出来やしませんよ」

「御為ごかしは結構です。ねぇ、ホントの事言って」

「カカシさん、アンタは何か勘違いしてるみたいだからハッキリ言わせてもらいますけど」

「…勘違い?」

「俺がアイツを抱いてたんです。アナタとアイツ、比べようがないでしょう?」

「へ…?は…?イルカせんせ、今…なんて?」

「なんなら俺に抱かれてみますか?そうしたら思う存分比べて差し上げますよ」

そう言ってニヤリと笑ったイルカさんは、痺れがくる程カッコ良かった。

先輩は多分、惚れ直したんじゃないかな。

まあ、僕は驚きのあまり烏龍ハイを口からも鼻からも吹き出してしまって、それどころではなかったけど。




end

八つ当たり

「…アレ?」

風呂上がり、髪を乾かしていたイルカ先生がドライヤーのスイッチを切って、ゴソゴソとテーブルの上や下を探し始めた。

「どうかしました?」

洗面台で目薬をさしていた俺は、首だけを出してぼやける視界の中イルカ先生に尋ねる。

「髪を縛ってたゴムが見つからないんです」

雑誌や脱ぎ散らかした服をひっくり返してゴムを探しているイルカ先生のお尻がゆらゆら揺れるのを見て思わずムラッときてしまった…けど、我慢した(飛びかかろうものなら『風呂出たばかりなのに!』と怒られるのがわかっているから)

「ベッドの中じゃない?」

「んー…ないですね」

早々に諦めて頭にタオルを捲くイルカ先生を見て、俺は他に何か髪を纏められそうな物がないか洗面台の引き出しを漁ってみた。

「必要な物って、探す時に限って見つからないんですよね」

「人生得てしてそんなもんデショ。……あ、」

引き出しの奥の方から、髪留めが出てきた。

見覚えのない物だけど、タオルを巻いてるよりはいいかと思ってイルカ先生に差し出す。

「良ければどーぞ」

「……ありがとうございます」

俺の掌に収まるモノを見て一瞬目を見開いたイルカ先生はにこりと笑ってそれを受け取ると、それから一切口をきいてくれなくなった。












「何が原因だと思う?」

「先輩、本気で訊いてるんですか?」

「俺はいつだって本気だよ。イルカ先生に関しては特に」

そう答えた俺に、テンゾウはやれやれといった風に溜息を吐いた

ナルトの修行中、少し遅い昼飯の最中。

俺達の間で弁当をがっついていたナルトが顔を上げる。

「カカシ先生~それは早めに謝った方がいいってばよ~」

「…へ?何に対して謝んのよ?」

「えー…言わなくても普通わかるだろ?」

「…ナルト、カカシ先輩が普通だった事あるか?」

失礼な事を言う後輩の頭を小突く。

テンゾウは何かといえば俺を人外扱いするから腹が立つんだよねぇ。

お前やナルトに比べたら、俺はまだまだ普通の部類だっての。

「んー…謝るのはいいけどさ。何に対して謝ってるのかわかってないと、イルカ先生余計ヘソ曲げちゃうデショ?」

「まだわかってねーのかよ!?カカシ先生はダメダメだってばよ…」

「ダメダメってお前ね…」

薄々自覚してはいるけれど、仮にも上司に向かってそれはないでしょうよ。

「まあ、先輩にはご自分で考えてもらうとして。修業に戻ろうか、ナルト」

「おう!」

相手してらんねーよ。そんな雰囲気で話を切り上げたテンゾウとナルトは張り切って腰を上げた。












修業が一区切りして、今日は一旦里に帰ろうという話になった。

根を詰めるばかりじゃなくて、多少の息抜きも必要だ。

里に入った途端ナルトは一楽に直行、テンゾウは何か用事があるらしく、挨拶もそこそこに姿を消した。

俺は…どうしたもんだかなぁ。

普段なら当然イルカ先生を迎えに行って、彼の家に転がり込むところだけど。

本当に怒らせてしまったらしく、イルカ先生は一言も口をきいてくれない。

家に上がっても、まるで俺が存在しないみたいに振る舞うのだ。

無視はキツい。

気取られないように行動するのは職業柄慣れているけれど、気配も消さずにいるのにそこに居ないように扱われるのは本当にこたえる。

現状を打破するには謝る…べきなんだろう。

まず、謝って。

次に、何に対して謝っているのかわかっていない事に謝って。

実は、イルカ先生が俺に甘いひとなんだという認識は、口にこそ出さないがしっかりと俺の中にある。

どんな風に謝ればいいのか、どう甘えれば彼は許してくれるのか。

打算的だけど、これまで彼の俺に対する甘さにつけ込んできた事例は数数え切れない程あるのだ。

例えるならイルカ先生攻略法とでも云おうか。

ただ今回ばかりは勝手が違って、これまで通用してきた手が通用しない。

どうしたものかと悩んでいる内に、足は自然とイルカ先生の家に向かっていた。

同じ所をぐるぐる回っていた所為か、辺りはすっかり日も落ちて。

あまりうろついていると通報されるかも知れない。そう考えた俺は、腹を括ってイルカ先生の家のドアを叩いた。

「はいはい、」

普段ノックなんかしないから、別の誰かが来たと思ったんだろうか。

少し余所行きの声で扉を開いたイルカ先生は、俺の姿を見咎めて眉を寄せた。

「………」

「あの、ごめんなさい。アナタが何に怒っているのかもわかってないんだけど…怒らせてしまってごめんなさい」

謝りながら、なんて拙い謝り方だろうと他人事のように思った。

でも、ホントに、早くイルカ先生の怒りを収めたかったし仲直りしたかったし。

俺達は、明日には命がなくなってしまうかもしれない身だから。

変な意地やプライドで、一生消える事のない後悔は二度としたくない

「どうぞ」

「え、あの、」

「もういいんです。兎に角上がって下さい」

土下座する事も、罵声を浴びる事も覚悟していた俺は、肩透かしを食らった気分になりながらもぞもぞとサンダルを脱ぐ。

イルカ先生の後ろをついて台所を抜け居間へと上がり込んだ俺は、眼前に広がる光景に絶句した。

「イ、イルカせんせ、コレ…」

「ヤマトさんからの頂き物です。気にしないで下さい」

「いや、だって、気にするなって…」

俺が指差す先、狭い居間に鎮座していたのは『木人形』だった。

「ヤマトさんが、ストレス解消にどうぞ。って、くださったんですよ」

どう見ても木遁で作ったそれは、俺にそっくりで。

顔や腹の辺りがへこんでいるのは、つまり……そういうコトなんだろうか?

というか、いつの間に?ヤマトはいつ、イルカ先生んちに来たワケ?

「イルカせんせぇ…」

「なんですか」

「俺、幾らでも殴られますから!コレ、返して来ていーい?」

「いいですよ。貴方がコレを返してきて下さるなら」

笑顔で俺の掌にポンと乗せられたのは、誰の持ち物かわからない、イルカ先生に貸したあの髪留めだった。




end

頑固者

八つ当たりの続きのような





今、俺の家の居間にはカカシさんを模した等身大の木人形が置いてある。

ヤマトさんがストレス解消にどうぞ。と言って置いていった物だ。

端的にデフォルメされていても特徴を良く捉えていて、一目でカカシさんだとわかるソレの、顔と腹の部分は少しヘコんでいる。

俺が腹立ち紛れに殴ったから。

原因は、カカシさんの家で無くしてしまった髪紐の代わりに差し出されたひとつの髪留め。

笑顔でそれを差し出したカカシさんに、他意も悪意も無い事はわかっていた。

お互いの人生にお互いの知らない過去があって、その過去の色々を飲み込んで今現在の俺達を形作っている。

だから、無邪気に彼が差し出した髪留めに嫉妬なんか覚えるのは間違っているのだ。

わかってる。

わかっているつもりだった。

俺の家にだって、前の恋人から贈られた品や、彼女とふたりで買って使っていた物が、実を言えばそこかしこにあるのだ。

良くいえば物持ちがいい。

悪くいえば貧乏性。

使える物を、恋人と別れてしまったからといって処分してしまうのは勿体無い。

例えば、彼女と別れる数日前に一緒にスーパーで買った醤油があったとして。

醤油を見る度に彼女の事を思い出せるかといえば、俺はそこまでセンチメンタルではないし。

悪いのは『さよなら』と言って俺の元を去って行った彼女と、彼女に『さよなら』と言わせてしまった俺の不甲斐なさであって、醤油に罪はない(その彼女と醤油の間に、切っても切り離せない思い出があるなら別として)

俺は貧乏性ではあるけれど、物に固執はない方だと思う。

消耗品なら尚更。

それはカカシさんも同じで(彼の場合は貧乏性云々ではなく、ただ単に余程のこだわりがない限り物に対して頓着がないだけなのだが)

だから、彼が俺の知らない誰かから贈られた物をまだ持っていたり、日常的に使っていたとしても、俺がそれに対して嫉妬したり腹を立てたりするのは必要のない事で

一目で女性の物だとわかる髪留めを差し出された時、ほんの一瞬『嫌だな』とは思ったものの、笑顔で受け取る事が出来た(と思う)

なのに、

頭では理解していても、小さな棘のようにチクリと刺さったわだかまりは、時間が経つ程に俺の口を重くした。

いっそその場で言ってしまえば良かったけれど、仮にもイイ歳をした男が女性の髪留めを付けて、その小さな小物ひとつにキーキーと目くじらを立てている姿を想像したら、あまりに滑稽過ぎて何も言えなくなってしまったのだ。

変な見栄とプライドから、俺はカカシさんと口をきく事を止めた。

無言の抗議と言えば聞こえはいいが、言ってしまえばただの無視。

陰湿で、何とも子供じみている

今時アカデミーの子供達だって、気に入らない事があったから無視するだなんて方法はとらないだろう。

そう考えると、気分は落ち込んで、

平素と変わらないようでいて、それでも明らかに俺に気を遣っているらしいカカシさんを見ると、ますます気が重くなる。

授業中も上の空だと生徒達に言われ、五代目にも気合いが足りないと叱責を受けた。

鬱々として、飲みにでも出ようかと思った矢先、ヤマトさんがナルトの修業の中休みで。と俺の家を訪ねてきたのだ。

どうやらカカシさん本人に聞いて事情を知っているらしいヤマトさんに、俺はグチグチと女々しく愚痴った。

それなら気晴らしに。と彼お得意の木遁忍術で出されたモノが、先の木人形。

『そろそろ先輩が帰って来そうなんで、お暇しますね』

ヤマトさんが風のように去ってしまった後、俺は木人形を殴りつけた

顔に一発、腹に一発。

三発目に蹴りを入れようとして、卓袱台に置いたままだった髪留めが目に入り、不意に蹴るのを止めた。

『喧嘩なんて、本人と出来るうちが華よ?』

紅さんの寂しそうな声を思い出したから。

卓袱台の前に腰を下ろして、華奢な造りの髪留めを手に取ってみる。

もしかしたら、

これの持ち主も、もう此の世にはいないかも知れないのだ。







しんみりとしていた俺の意識を引き戻したのは、カカシさんが叩いた扉の音。

居間にどっかりと鎮座する木人形を見て、カカシさんは何とも言えない顔をした。

述べられた謝罪も泣きそうに歪められた顔も、偽りなく今ここに在って、触れられる距離に彼は居る。

元の持ち主に。とカカシさんの掌に乗せた髪留めが、俺の意地の悪い発言に、ほんの一瞬キラリと光った気がした。














「アレの持ち主ね、漸く見つけましたよ」

忍犬達を使って方々を探し回ったらしいカカシさんは、ふぅ。と息を吐いて、畳の上に腰を下ろした

「お返し、出来たんですか?」

存命だろうと彼岸の人でも、返す事は可能だろう。

「うん。でも、全然覚えてないって言われまして…返さないと帰れないからって、押し付けて逃げてきちゃいました」

「………」

どうやら、カカシさんの過去のお相手は御存命だったらしい。

持ち主すら覚えていない小さな髪留めに、あんなに心乱された俺が馬鹿みたいに思えた。

「…イルカ先生、まだ怒ってます?」

「……自分に怒ってます」

「ゴメンナサイ。俺の無神経の所為ですね」

どうぞ、気が済むまで殴って下さい。

そう言って下げられた頭を、俺はふわふわと撫でて小さく笑った





end

身の程知らずの人魚姫

※会話文です





「イルカ先生は、もし俺が人魚だったらどうしますか」

「人魚?人魚って、あの人魚ですか?人面魚とか魚人とかでなく、上半身が人間で下半身が魚の、あの人魚?」

「懇切丁寧な説明ありがとうございます。そうです、その人魚です。ついでに姫の方でお願いします」

「人魚姫?童話の?」

「そうです。王子様に恋しちゃって、人間になる為に自慢の美しい声を失う、あの人魚姫です」

「カカシさん、どっかで頭でも打ちました?」

「頭は打ってないです。今日の七班は子守りの任務で、そこで絵本を読んだぐらいで」

「何ですか。絵本読みながら、もし俺が人魚姫だったら~なんて考えたんですかアンタ」

「考えました。もし俺が人魚姫だったら、イルカ先生は俺をどうするんだろうな~なんて」

「うーん、そうですね…とりあえず木ノ葉に海は無いので、人魚に遭遇する事はないですよね。という事は、人魚姫であるカカシさんと俺は、まず出逢うことがない。と」

「いやそこは海がある設定で。というか、木ノ葉じゃない別な場所でお願いします。海があって、俺が人魚姫で、アナタが王子様」

「はあ…わかりました。とりあえず人魚姫であるカカシさんは、海で溺れた俺を助けて恋に落ちるんですよね?」

「船が転覆です。回遊中だった俺がイルカ王子を華麗に助けます」

「俺、泳ぎ得意なんですよね。ガキの頃、木ノ葉スイミングスクール通ってましたから」

「それは初耳です。でも今は、泳ぎが苦手なイルカ王子でお願いします。溺れてて下さい、人魚の俺がスパッと助けますから」

「はあ。…で?後日自分が助けられた浜辺に、人間になったカカシさんが倒れている?」

「そうですね。悪い魔女……綱手様辺りが適任な気がします。綱手様から人間になれる薬をいただいて」

「綱手様なら、薬の代償がカカシさんの声、なんて言いそうにありませんけど」

「まあ、魔女役は誰でもいいんです。ガイでもいい」

「ガイさんはイヤです。後々、人魚姫の恋敵に化けて俺に近付いてくるんですよ?」

「見た目はガイで、声が俺な恋敵?…あー………ガイは却下で。とにかく、浜辺に倒れている俺を見つけたイルカ王子は…」

「俺、いっつも思うんですけどね」

「はい?」

「筆談でどうにかならないんですかね、あの話」

「いやいや……声を失って、真実と自分の想いをなかなか伝えられないもどかしい部分が、あの話をキュンとさせる最大の要素だと思うんですけど……筆談て。人魚と人間じゃ、使う文字が違うかも知れないし」

「だって、喋る言葉は通じてるんですよ?なんですか、人魚姫はバイリンガルですか」

「バイリンガルでしょう。リスニングは出来るけど、書き取りは苦手な帰国子女なんです。人魚姫は」

「生活圏の違いは兎も角…俺は筆談してみるべきだと思います。俺が王子なら筆談します」

「浜辺で?」

「王子は筆記用具なんか持ち歩かないでしょう。浜辺に棒切れで筆談を試みますよ」

「人魚姫である俺は、そのとき真っ裸なんですけどね…。とりあえず城に連れて行ってもらえませんか」

「同性だと大して気にならないと思いますよ。その辺に落ちてる昆布で隠せばいいです」

「昆布」

「ワカメでも」

「ま、いいです。昆布ないしワカメで股間を隠した人魚姫な俺と、落ちてる棒切れで筆談を試みたイルカ王子。案の定筆談は失敗です。さて、どうします?」

「仕方ないので城に連れて行きましょう」

「ありがとうございます」

「それから風呂に入れて服を着させて、飯を食べさせます」

「至れり尽くせりですねぇ。ありがとうございます」

「それから警察に連絡ですね」

「……え?」

「当然でしょう。身元は不明、言葉は話せない、筆談も駄目。警察に任せるしかないじゃないですか」

「美しい人魚姫とのラブロマンスは?」

「ありません。美しかろうが何だろうが、警察に連絡して引き取りに来ていただきます。捜索願いが出てるかも知れませんし」

「…………」

「どうしました?」

「俺がもし人魚姫だったら、」

「はい」

「警察署内で泡になって消える運命なんですね…」

「そうなりますねぇ。良かったですね、カカシさん。人魚姫じゃなくて!」

「………ハイ」




end