【デリカシー】

 

 

共同生活というものは、最初は気にならないようなことでも次第に気になってしまうことがある。



食事が終わると後は各自自由時間というわけで、いつものごとく愛読書を開いて目線を落とした。
イルカはといえば、アカデミーの授業の資料だろうか?
巻物を紐解き、少し眉をしかめながらも熱心に視線を走らす姿をチラリとだけ確認し、カカシの指は次のページを音も立てずに捲る。
公衆の面前でそんな本をと、ある人は頬を赤らめ、またある人はあからさまに嫌な顔をして子供の顔を反らせたりするが、コレはれっきとした恋愛小説である。
いや、恋愛指南書と言っても過言ではないと、カカシは声を大にして言いたい。
出会う前からこのスタイルだったカカシに、イルカは何も言わないし、そもそも口出しされる謂れもないと思っているのだが・・・などと、そんなことをぼんやり考えていたら。

ブッ!

いきなり響いた破裂音に顔をあげた。
もちろん音の発生源はカカシではない。
この部屋には二人しかいないのだから、必然的にその音を発した人物は限られるわけだが・・・。
じっと見つめた先の人物は、コタツの中に潜り込んだまま素知らぬふりで巻物の文字をたどっている。

「・・・ちょっと」
「はい」

こちらをチラとも見ないイルカの返事に、眉を寄せた。

「あのねぇ・・」
「何でしょう?」
「ーーーいつも言ってんでしょ、人前でオナラはやめなさいって」

同性だからだろうか。イルカはカカシと暮らし始めた当初からこと放屁に関しては羞恥というものを感じないらしい。
最初のうちは、『やだッ! また一つイルカ先生のことを知っちゃった!』 なんて乙女のようなことを思っていたカカシだったが、こう毎回だとレア感なんてまるで無くなってしまう。
しまいには。

「ちょっと、聞いてんですか?」
 ブッ
「イルカ先生ッ!」
 ブブーッ
「ちょっと、あんたねぇっ!」
 ブッブブッ!

なんて、オナラで返事をされてしまうのである。
確かに男同士だし、恥じらいを求める方がどうかしているのかと思わなくもないが、それにしてもイルカの態度は自由奔放すぎる気がするのはカカシだけなのだろうか。

「こっち見なさいよ!」

力いっぱい愛読書を閉じて、巻物から視線を離さないイルカを睨みつけた。
机に叩きつけた本が跳ねて畳に転がるのに、渋々と言った体でこちらに顔を向けたイルカが、コタツに潜り込んだまま溜息をつく。

「何ですか?」
「だから、人前でオナラはやめろって何回も言ってんでしょッ!」

尖った声をだすカカシに、再度溜息。
そんな姿に咎める視線がきつくなる。

「あのですねぇ」
「なによ」
「やめろやめろって言いますけど、生理現象なんで」
「しってるよ、そんなこと」

胡乱気な空気こそこちらが出したいと思うのに、まるでカカシの言っていることの方がおかしいとでも言うような視線は何だ。

「いちいち屁をこくのにトイレまで行くの、面倒じゃないですか」
「・・・・・」
「しかもここ、俺んちですし」

なにか問題でも? というようなイルカの表情に思わずクナイに手が伸びそうになる。
それをぐっと押しとどめて、これだけはと口を開く。

「・・・じゃあせめて、コタツの中だけはやめましょうよ」
「えー」
「えー、じゃないでしょッ! 一体どれだけ籠ると思ってんのッ!! あんたラーメンばっか食ってるから、臭いが凄いんだからッ!」
「そうですか?」

ペラっとめくった炬燵布団の中に顔を突っ込み、スンっと臭いを嗅いだイルカがニカリと笑う。

「くっせ」
「ほらっ!」
「おならの臭いって生きてる感じがしますよねー」

ハハハッ。大口開けて笑う姿にぎりりと奥歯を噛み締める。

「バッ・・」

バッカじゃないのッ!!
ワナワナと震える拳をギュッと握りしめた。
まずい。殴ってしまうかもしれない。
カカシは爪の先まで忍びである。幼い頃から厳しく育てられてきたし、その進むべき忍道も意識することなく身についてしまっている。

オナラはまず音をたてない。

大体だ。自分の家とはいえ、恋人が傍に居るのにこんなに恥じらいもなくコケるものなのだろうか。

「・・・・・」

むうっと唇を引き結んだままのカカシの表情に何を勘違いしたのだろう、イルカがバサリとこたつ布団を捲り上げた。

「そんな怖い顔しないでくださいよ」
「あんたね・・」
「籠るってんならこうして・・」

バサバサと煽り始めてギョッとした。
途端に部屋中に広がる臭気におののいて思わず腰が逃げ腰になる。
自慢じゃないが、カカシの鼻は犬レベルだ。

「ちょ、ちょっと! やめなさいってッ!! 部屋が黄色くなるじゃないッ!」
「だってカカシさんが」

慌てふためいて逃げようとするカカシに、面白がるイルカがなおもこたつ布団を扇ぎまくる。
いつも澄ました秀麗な顔が歪むのが痛快だ。

「あははっ」

だからちょっとやり過ぎたと気づいたのは、その左目が開かれた時だ。
ぐるぐると回る写輪眼に、こたつ布団を握るイルカの手がそのまま固まった。
写輪眼って、臭いまで飛ばしちまうんだっけ? なんて思ったのは一瞬のこと。
すっくと立ち上がったカカシが、忍びにあるまじき足音をドカドカとたてて玄関の扉を開いた。

「どこ行くんですかー、カカシさん」
「帰るッ!」
「へっ? だって今日は・・・」
「ーーーこんな臭いのところにいられないでしょッ!!!」

バターンッ! 捨て台詞を吐いて思い切り閉められた扉を見つめて、イルカはポカンと口を空けた。
まさかあんなに怒るとは思わなかったのだが、相当に機嫌を損ねたようだ。
初めて見るカカシの怒りっぷりに、しばし玄関を見つめた後、イルカはこたつ布団を元に戻した。
思い切り扇いだせいで、中の空気はすっかり冷えてしまってる。
また一から暖めなおさねばならないと、首まですっぽり埋もれた。

「う~、さっみ。こんだけ寒いとここから出られねぇよなぁ」

カカシが出て行った玄関を、視線だけ動かしてみやる。

「あ、イチャパラ」

ぽつんと置き去りにされた愛読書が、視線の先に転がっていた。



*****



「お預かりします」
「・・・・・」

ニコリと微笑みをたたえながら掛ける言葉にも、返事はない。
片目から放たれる、射るような視線が肌身に突き刺さるようだ。
そんな身の毛もよだつほどの殺気を一身に浴びながらもケロリとしている同僚は、サラサラと書類にサインして、完了とばかりに書類箱に放り込んだ。

「はい、結構です。お疲れ様でした!」
「・・・・・」
「あれ? まだ何か・・」
「ーーーイルカッ!!」

ぶわっと膨れ上がった殺気に恐れおののきながらも思わず声をあげた。
キョトンとした表情でこちらを向いた同僚に、頭を抱える。
どうしてこの状況で、平然としていられるというのだろう。
言葉こそは発しないが、里を代表する忍びが放つ駄々漏れの怒りのチャクラ。それを全く意に介さない同僚の肝の座り方に感嘆の声さえ漏らしそうだ。
しかし、いつまでもこのままではもうこちらの身が持ちそうにない。
ここ数日、心臓が縮み上がるほどの殺気を浴びせ掛けられすぎて、受付のストレスはもう針が振りきれている。

「あのな・・」
「んだよ。あ、カカシさん、書類に不備はありませんでしたので」
「・・・・・・・」

だからその態度はヤメロと思うのに、お疲れ様でした~なんて言ってヘラヘラ笑う。
上忍の眉間に刻まれた深いシワと共に力いっぱいの溜息が漏れた。
呆れたように踵を返す後ろ姿には、こちらが申し訳ありませんと謝罪したい。
心なしかいつもより背中が曲がってるんじゃないか?
そんなカカシを見送って、音もなく閉められた扉にほーっと長い溜息をついた。

「おまえさぁ」
「ん~?」
「はたけ上忍となんかあったんだろ?」

チラリと見れば、少しだけ考えこんだ後ぽりぽりと鼻の頭を掻く。
思い当たることがないわけでもないらしい。

「別に大したことでもねぇんだけど」

大したことないような事で、あの温厚な人があそこまで怒りを周囲に撒き散らすだろうか?
どうせイルカのことだから、何かしでかしたんだと思うものの想像がつかない。

「あれかな? って思うことがないわけじゃねぇよ」
「言ってみろ」
「でもなぁ・・あんなどうでも良いようなこと」

考えこむイルカに眉をしかめた。
イルカが言うようにどうでも良いようなことで、連日あんな殺気を浴びせらせたんじゃたまったもんじゃない。
しかし、当のイルカはといえば、早く続きを話せと促すイワシに唇を尖らせた。

「まぁ、あれだ。・・・コタツの中で屁をこくなって」
「・・・・は?」
「だから、コタツの中で屁を・・」
「ーーーもういい」

馬鹿馬鹿しい。
本気でどうでもいいことじゃねぇか。
そんなことで受付の中忍が毎回縮み上がる思いをしてきたと思うと怒りすら湧いてくる。

「臭いがこもるって言うから、仕方なくこうバサバサっとだな」
「もういいって」
「したら怒って出て行っちまったんだよ」
「それ以上しゃべんな!」
「・・・イワシが聞いてきたんだろ」

なんだよとブツブツ隣でごちるイルカの鼻先に指を突きつけた。

「謝ってこい」
「んでだよ」
「とにかく謝ってこいッ!!」

結局のところ、屁が云々で怒っているわけじゃないのだろう。
つまりはその後のフォローだ。
教師のくせにそんなところは抜けまくってるから頭が痛い。
最後通告とばかりに不満そうな顔をするイルカの鼻先を摘んだ。

「これは、受付の総意だ!」

ビシリと指差すイワシの宣言を、居並ぶ報告所の面々が最もだと激しく頷いたのは言うまでもない。



*****



「おかえんなさい」
「ただいま」

ガチャリと玄関の扉を開けて入ってきた恋人を、これ以上ないほどの満面の笑顔で出迎えた。
あれから同僚たちに背を押され、半ば強制的に謝罪に行かされたイルカのことを、カカシはあっさりと許した。
ほらな。怒ってなんかないじゃないかと心の内でそう舌を出したもんだが、暫くこの家に帰ってこなかったカカシが気がかりでなかったかといえば嘘になる。
本棚に戻された愛読書を手にとって、いつもの定位置に座り込んだカカシを確認してからイルカもコタツに潜り込んだ。
早くから電源を入れていたコタツの中はさながら温泉だ。

「はぁ、極楽。ここに入っちまったらなーんもしたくなんねぇな」
「また寝てたんでしょ、ここ跡が残ってるよ」

こたつ布団に顔を埋めていたせいで、頬に残るシワを辿られる。
けして細くはないけれど、爪先まで繊細で優美な手だ。
印が素早く結べるようにデザインされた手袋から覗く指先は、とても美しい。

「悪魔の箱なんで」
「コレ?」
「はい。気力を奪ってくんですよ」
「確かに気持ちいいよね」

カカシの家にはないものだ。
冬はイルカの家に入り浸りになるのはコレがその一因だと知ってる。

「布団に入ってんのと一緒でね、こう、身体の力が抜けてく・・・」

ホワァと力を抜いた瞬間、飛び出した音に気づいただろうか?
黙ってこちらを見ているカカシの視線からは、さすが上忍というべきか、何も読み取れない。

「えー・・・っと・・」

視線を彷徨わせるイルカに、小さな溜息一つ。
これだけで、彼の耳をごまかせなかった事実を知らされる。
ついこの間、物凄い剣幕で出て行ったカカシの背中が脳裏に浮かぶ。まさか帰ってきて直ぐやっちまうとは、イルカも予想外だった。
だから。

「・・・・オナラじゃないです」

自分でも呆れるぐらいの嘘をついたイルカに呆れた眼差し。
相手が無言だからこそ感じるプレッシャーが身体に突き刺さる。

「オナラじゃないですから」

尚も口にしたセリフに、カカシの唇がクッと上がった。

「オナラじゃない、ねぇ」

やけにもったいぶった言いっぷりに嫌な予感がした。

「そうですよ」
「・・まさか女でもないイルカ先生からそんなセリフが出るなんて思いもしませんでした」
「へっ?」
「あぁ。女と付き合ったこともないせんせには言われたこともないセリフでしょうけど」

平然と失礼な事を言われてむうっとする。
なんだ?
女が言うオナラじゃないってっセリフ・・・。

「ーーーうわぁっ」

思い当たってカーッとした。
ニヤニヤとする表情から、誂われていると気づいたのはその後だ。

「な、な、なんてこと言うんですかッ!」
「オナラじゃないなら、せんせにもそんな場所が?」
「ちちち違いますッ! オナラです、誰がなんと言おうとオナラですっ!!」

このまま放っておけば、次は「じゃあちょっと確認しましょうか」なんて恐ろしいことを言い出すに決まってる。
慌てて言い募るイルカに追い打ちをかけるように、上忍の色気のある一瞥が飛ばされた。

「あれから考えてたんですよね」
「な、何を・・・?」

楽しげに嗤うその姿は、もはや愛しい恋人の姿とは言いがたい。

「なんでそんなにイルカ先生がおならばっかりするのか・・・って」
「・・・・・」
「つまり、尻がユルイからではないかと」

失礼な。
けして緩くはないと言いたいのだが、あれだけ奔放に放屁してた分信頼性に欠ける。
しかもイルカの穴がゆるいというのなら、それは間違いなくアンタのせいじゃねぇかッ!
心の中で激昂するイルカがだったが、「だからね」とニンマリ口の端を歪めた恋人の表情に背筋が凍った。

「解決策を言っても?」
「結構ですッ!!」

嫌な予感しかしなくて、イルカは震え上がりながらも思いっきり首を横にふる。

「開いてる穴なら塞いで・・」
「ーーーーッ!!!」

ブンッと投げられた座布団が宙を舞った。
態と受け止めたカカシの秀麗な顔が、悪魔の微笑みとともにずり落ちる座布団からゆっくりと現れた。
そして、一瞬のうちに囚われた腕の力強さに思い知るのだ。
・・・カカシがあっさりとイルカを許した訳を。


これ以降、イルカがそこかしこで放屁しなくなったかは、ご想像にお任せする。